日本語日本文学科

2026.03.14

学生の作品紹介|「海坊主の世渡り」(安東 万葉) 文学創作論・ 文集第23集『連綿』(2025年度)より

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    文学創作論

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本学科の授業科目「文学創作論」では、履修生が1年をかけて作り上げた作品をまとめて、文集を発行しています。
ここでは、第23集『連綿』に掲載された一作「海坊主の世渡り」を、ご紹介します。

第23集文集『連綿』(2025年度)の表紙第23集文集『連綿』(2025年度)の表紙

海坊主の世渡り
作・安東 万葉(2025年度・4年生)



 ここは波と波が飲み込み合い、荒れ狂う真っ暗な冬の海。
 その真ん中で、一人の漁師が舟を漕いでいた。彼の名は徳蔵(とくぞう)。
 強風は彼の無造作な髪をさらい、毛根ごと意識を飛ばそうとする。冷気は鼻奥の粘膜を刺し、鋭い痛みを誘う。そんな中にも関わらず、徳蔵は全身にびっしょりと汗をかきながら、ただ前方を睨め付け、舟を進めている。その視線が刺すものは、他でもない彼自身だった。
 彼の心中にはただ、せがれの浜吉を思う気持ちのみがある。
(ちくしょう、ちくしょう! 浜吉(はまきち)……すまねえ、無事でいてくれ!)
「ならず者」。それが漁師間での徳蔵の呼び名だ。彼にとって世渡り、つまり渡世とは、ただ疎ましいものだった。
 父親はおらず、母親は徳蔵が六つになった日に男と消えた。幼い徳蔵の毎日は、生き延びることにただ必死だった。
 村の有力者に頭を下げ、下駄のようにこき使われながら働けど、得るものはわずかばかりの日銭と、「恩を忘れるなよ」という冷ややかな言葉。あまりの空腹にたまらず食い逃げを行うと、あっけなく捕まってしまい、顔の形が変わるほど殴られた。悪評が広まり、昨日まで優しかった友人に後ろ指をさされるようになった。
 そんな生活を送る中、彼には一つの揺るぎない価値観が生まれた。
「世間と関わるということは、摩擦と似ている」
 野良犬のような目でうずくまりながら、彼は思う。誰かと関わるたびに、自分が擦り切れ、火傷をするように傷つくことが、世間との関わりを持つことと同義になっていったのだ。
 しかし幼いながらに、「人間は一人では生きていけない」ということは理解していた。この短い手足では、世間と断絶したまま飯を食っていくことなど叶わぬと、彼は知っていた。
(人間である以上、苦しみながら渡世をするしかないのだ)
 心がどうしようもなく寂しい時は、夜の海にもぐり、一心不乱に遊泳した。波をかき分ける度に背びれが生え、鱗の肌に変化し、鮪になったかのような錯覚を覚えるほど、静かな没頭だった。
 彼にとって信じられるものは、海だけだった。俗世のように、しがらみなどない。他者との摩擦もない。単純明快な命のやり取りの制約が、彼には心地よかったのだ。
 クラゲに刺され、激痛にのたうち回りながら溺れそうになった時も、波に呑まれ一人で沖に流された時も、渡世の底知れなさに比べれば、大した恐怖ではないと思えた。
「渡世より恐ろしいものはない」
 彼は海で困難に見舞われた時、決まってこう唱え、自分を奮い立たせた。
 やがて成長し、漁師になった徳蔵は、その命知らずな漁法から、周囲の漁師に敬遠されていた。しかし、彼に仲間は必要ない。恋人も友人も要らない。女は適当に買い、友は酒と海で十分だった。
 そんな徳蔵に転機が訪れたのは、今から五年前、齢二六の時だ。町はずれの自宅の軒先に、赤子が捨て置かれていたのだ。「あなたの子です」と書かれた札に、心当りが無いわけではなかった。馬鹿馬鹿しく思いながらも籠の中をのぞくと、真っ白な麻布にくるまれた赤子は玉のように輝いており、
(竜宮の乙姫様からの贈り物だろうか)
という考えがよぎるほどだった。徳蔵は奪い奪われる人生の中で、初めてなにかを与えられた気がした。
 この子には、自分のような危険な沖へ向かう人間ではなく、安全な浜で健やかに育ってほしいという願いから、浜吉と名付けた。浜吉は、よく食べ、よく眠り、よく泣く赤子だった。一人きりの育児は大変だったが、労苦に慣れた徳蔵にとっては、ひたすらに温かで幸せな日々だった。
(誰かとの摩擦が、こんなにも心温まるものだとは)
 小さな命をあやしながら、徳蔵は繰り返しそう思ったのだ。
 五つになった浜吉は、徳蔵の願いと相反し、漁に興味をもつようになった。
「なんでおれは父ちゃんの漁についていっちゃいけないの?」
 徳蔵は、浜吉に自分と同じ海男の血が流れていることを嬉しく思いながらも、同時に浜吉を危険な目には遭わせたくないという葛藤を抱いていた。
「浜吉、沖は危ない場所なんだぞ。お前はまだ小せえんだから浅瀬までにしとけ」
 そう言うと、浜吉はいつも不貞腐れ、徳蔵はそのたびに罪悪感に苦しめられた。幾度も同じやり取りを繰り返していた結果、とうとう浜吉は徳蔵が不在の間に、家を抜け出し、丁度漁へ向かうところだった船に乗り込んでしまったのだ。徳蔵にその事実が伝えられたのは、その日の夕暮れだった。
(まずいぞ。今日は波の色が異様に黒い。そして魚の死骸がそこら中に浮いている……こんな日は、あれが出る)
 船着き場で待てど、浜吉の乗った漁船は帰ってこなかった。しびれを切らした徳蔵は、船を出そうとする。船着き場の者はみな徳蔵の無謀な行動を、異様な目で見ていた。
「気持ちはわかるが、徳蔵、この天気では無茶だ!」
 皆こぞって彼を制止しようとしたが、徳蔵はその全員を殴り飛ばし、真っ暗な目で淡々と舟の準備をする。老練の漁師も、
「徳蔵。お前なら分かっているだろ。今日の海は、あれがでるぞ」
と本気で止めたが、徳蔵の耳には届かなかった。
 そう、舟を出すのに周りに静止された理由は、海が荒れているからだけではない。怪異が出るのだ。その名は「海坊主」。舟を破壊し、人間を海底へ攫ってしまう化け物だ。
 けれども、徳蔵に恐れは微塵もない。ただ我が子を思う強い意思に突き動かされ舟を沖へと進める。顔に大きな波しぶきがかかるが、もはや汗と区別がつかない。徳蔵はそれをぺろりと舌で舐めとる。しかし、先程から何故か汗の量が異常だ。肌が粟立ち、嫌な予感がする。
(なんだか潮の流れが異様だ……あれはなんだ?)
 徳蔵の前方に、一か所だけゴポゴポと、沸騰しているように泡立っている部分がある。その泡立ちは次第に激しくなり、盛り上がった海面から真っ黒な大男が現れた。油の腐ったような、強烈な刺激臭に、徳蔵は顔をしかめた。
「でやがったな、海坊主」
 それは、大波をゆうに超える大きさだった。真っ黒な顔面に白い眼玉のみが浮かび、その両眼はしっかりと徳蔵を捉えている。そして、その巨大な手をこちらへ覆いかぶさるように伸ばしてきた。
 死が目前に迫る中、徳蔵は、全身全霊の想いで自分を奮い立たせるように、喉が裂ける勢いで、いつもの言葉を放った。
「渡世より恐ろしいものはない‼」
――その瞬間、海坊主は唐突に動きを止めた。その突然の行動に、徳蔵もつい同じように静止した。
 海坊主はギョロっと飛び出た目玉をぱちくりとさせながら、こう尋ねた。
「……それは、どういうことだ?」
 その声は、海底から響くように低かったが、意外にもあどけなさが目立つ喋り方だった。
「おれはこの海で、さんざん人間をおそってきたんだぞ。おれはおれより人間に恐れられているものを、今まで見たことがない」
 海坊主の予想外の言動に狼狽しつつも、徳蔵は負けじと食らいつく。
「……そ、そうだ! 渡世の恐ろしさに比べたらお前など小魚程度の脅威でしかない!」
――数秒間の沈黙の後、海坊主は球体状に小さく縮み、貝殻ほどの大きさになった後、ぽちゃんと海に落ちて消えた。
(さっきの例えが効いたのか……?)
 いつの間にか波は落ち着き、船は穏やかにたゆたうようになっていた。徳蔵はしばらく放心していたが、我に返り大きな叫び声をあげた。
「おい、海坊主! 俺のせがれをさらっただろ! 返しやがれ馬鹿野郎!」
 船の櫂で水面を殴り暴れると、数秒の沈黙ののち、クラゲ程度の大きさになった海坊主がポコッと現れ、こう語りかけてきた。
「……なら、おれの願いを一つ聞け。そうすれば息子をかえしてやる」
「なんだ? その願いってのは」
「おれに渡世とやらをさせろ」
 思いがけない要求に徳蔵は戸惑ったが、同時にこれは好機だと思った。
(そうだ! こいつに世渡りの辛酸を味わわせてやろう。散々船を沈めてきた化け物だ。こらしめてやったらもう人間に手出しはするまい)
 徳蔵は嬉々として答えた。
「いいだろう! では舟に乗れ。俺がお前に世渡りのなんたるかを教えてやる」

「おい、海坊主。お前その姿のまま江戸の町を歩くつもりか」
 舟と並走してすいすいと魚のように泳いでいる海坊主に対し、徳蔵が言った。先ほど舟に乗れと言ったが、それは拒否された。どうやら乗り物は好まないらしい。
「では人間に化けようか」
 海坊主はそう言い、黒い体をぬるっとよじり、六歳ほどの男児の姿に化けた。もさっとした黒髪に、ぎょろりと白い目は、変化前の風体を思わせる。さらりと披露されたこの技に、徳蔵はばれないように感嘆した。
 恐ろしい怪異ではあるものの、息子と同じくらいの見た目をした者をこれから懲らしめてやろうとしていることに、徳蔵は若干の後ろめたさを感じた。
 しかしそうも言っていられない。(人間の後ろ暗い、危険な部分を見せるのに最適な場所は……)と考え、こうつぶやいた。
「……まずは深川の賭場かな」

「さァさァ、張った張った! まだ張る衆はござんせんか!」「ここらでよござんすか、よござんすか!」「それじゃ、胴はこれにてよしッ! いくぞ、丁か半か!」「さァ、勝負と出ましょい!」
 あまりの騒がしさに目を白黒させている海坊主を横目に、徳蔵は、
(よし、いいぞいいぞ。ビビってやがるな)
とほくそ笑む。薄暗い部屋の中、煙草の煙と臭気が充満した部屋は熱気に満ちている。油灯りを反射した人々の目は、爛々と野性的にぎらめき、隣人を出し抜くことに鼻息を荒くしている者ばかりだ。
「張った! 丁だ!」
と徳蔵が高らかに叫ぶ。
「半ッ! ご見ください!」
 賭けの結果は惨敗で、徳蔵は五百文を一瞬で溶かしてしまった。
(まずい、こりゃあ浜吉には言えねえや……)
 うなだれる徳蔵に構わず、海坊主は真剣な顔で尋ねる。
「なんで人間はこんなにも賭け事に熱中してるんだ?」
「そんなもん、ただの退屈しのぎだよ」
 落ち込みながら答える徳蔵に、賭け仲間の男が声をかけてきた。
「おいおい、徳蔵! 久しぶりに顔を出したと思えば息子に対してなんだその冷たい態度だ! ちゃんと考えて答えてやれよ。なあ坊主?」
 海坊主は酒臭い息に顔をしかめながらも、まっすぐ見つめてくるので、仕方なく徳蔵は答えた。
「賭け事ってのは、言ってしまえば死の模倣なんだよ。ここに集まってる人間は、退屈なやつらばっかりだ。死に近づいて刺激を得て、退屈から抜け出そうとしてるんだ」
 脅かしてやろうと思い恐ろしく言ってみたが、海坊主は寺子屋の生徒のようにふむふむと頷くばかりで、徳蔵はさらにうなだれた。

「次はここ、吉原裏の見世物小屋だ。ここでは世の中の深淵が手軽に垣間見れるぞ」
 徳蔵はにたりとした笑みを浮かべ、海坊主に語りかける。 
 小屋の中は、さまざまな人間のざわめきと笑い声で満ちていた。剃髪した奇形の男、両腕が異様に長い女性、妙に毛深い者。客たちは金を払ってこの光景を楽しんでいた。海坊主は目をまん丸にし、
「なんで人間は恐怖に対しわざわざ金を払うんだ?」
と問いかける。徳蔵は、したり顔でこう答える。
「人はな、安全な位置から恐怖を感じるのがやめられないのさ。自分は大丈夫だと思いながら、禍々しいものを見る。そんな自分が一番禍々しいとは知らずにな。海坊主、それが人間ってもんだ……恐ろしいだろ……」
 知ったようなことを堂々と話す徳蔵に対し、海坊主は、ほうほうと素直に頷くばかりだ。先ほどから一向に人間に慄く手ごたえを感じない。
 海坊主は人間たちの行動を観察し、しきりに「なんで?」と問い続ける。その様子は、本当にただの好奇心旺盛な子供のようで、徳蔵の良心は少し傷んだ。
(こいつ、やけに人間に興味津々だな……人をたくさん襲った怪異だが、その実ただの無知な子供じゃねえのか?)
 そう思うと、徳蔵は海坊主にもっといろんな人間の面を見せたくなった。そして、人間を知りたいと思う海坊主の気持ちを、もっと見てみたくなったのだ。
「よし、ここを出るぞ。次は落語だ。……今日はちょうど俺の好きな演目がやっているらしいぞ」

 暗い寄席の中、畳敷きの狭い空間に、人々はぎゅうぎゅうになって集う。わずかな灯りが海坊主と徳蔵の顔を照らしていた。観客たちはみな、噺家の声に真剣に耳を澄ませている。
「浜の魚屋、勝五郎。大金を拾ったその夜、酒に酔いしれ……」
 演目の内容は、怠け者で飲んだくれの主人公、勝五郎が一夜にして手に入れた大金に歓喜するが、次の日の朝に目覚めるとそれは夢だったというものだった。
 徳蔵は、この場面を見るときはいつも、胸が締め付けられる思いでいた。結末を知っていたとしても、一晩の夢のような幸福が一瞬にして崩れ去る様子に、涙がにじんてしまう。ふと隣をうかがうと、海坊主は落ち着かない様子で、きょろきょろと周囲を見回している。見かねた徳蔵が、
「おい、海坊主。まっすぐ前を見て集中しておけ」
と小声で注意すると、海坊主は素直に聞き入れ、噺家の顔をじっと見つめる。
「商いもしないでお金を欲しがるから、財布を拾ったなんてつまらない夢をみるんだよ」
 勝五郎の妻は言う。そうして自らの行いを深く反省した勝五郎は真面目に働き出す。そうしていつしか勝五郎の魚屋は繁盛し、夫婦で豊かな生活を送れるほどになった。
 落語が進み、妻が主人公のために拾った大金を隠していたことが語られる。
「久しぶりに、お酒なんてどう?」
と妻が進めるが、勝五郎は、
「やめておこう。また夢になるといけねえ」
と断り、幕は閉じた。
 徳蔵が隣を見ると、海坊主はそわそわ辺りを見回している。どうやら、余韻に浸る観客たちの表情をひとりひとり観察しているようだ。満足げな笑みを浮かべる者、退屈そうにあくびをする者、袖で涙をおさえる者など、それぞれの感情がうずまいていた。
「さっきから人の顔ばかり見ているが、そんなに面白いのか?」
徳蔵が尋ねると、海坊主はこっくりと頷く。
「人間の気持ちはとても忙しそうで、生き生きしている」
「……お前、実は人がすげえ好きなんじゃねえのか?」
 徳蔵の軽口に、海坊主は少し戸惑いながらも、「そうなのだろうか」、と小さく呟いた。

 二人は寄席を出て、隅田川のほとりに座った。海坊主は徳蔵に尋ねる。
「なんで人間は……」
 そこでふと海坊主は喋るのをやめた。徳蔵がフッと笑いながら、こちらを愛おし気な目で見ていたからだ。
「おまえのその、なんでなんでって言う癖、浜吉にそっくりだよ」
 急に向けられた優しい言葉に、海坊主はたじろいだ。怪異として恐れられていた彼にとって初めてのことだった。
「お前は海ではあんな大きななりをしていて、その実中身は何も知らない子どもなんだな」
「……ただの子供は人を襲って海にさらったりしない」
 その時不意に、ひゅう、とふたりの間を風が通り抜けた。夜の深まる気配と、町の人々の喧騒の匂いを乗せた、師走の風だ。二人は自然と黙り、風が連れてきた冬のさわめきに耳を澄ませる。
 徳蔵はふと、赤子だった浜吉の夜泣きをあやす時、よくこの場所に来ていたことを思い出した。浜吉は夜泣きの激しい子で、一向に泣き止まずお手上げな時は、いつもこの川の風にあてて落ち着かせていた。
 五歳になった浜吉に、あの時なぜあんなに泣いていたのか聞いてみたことがある。すると、
「一日が終わっちゃう感じが、どうにも寂しかったんだ。それを父ちゃんにも分かってほしかったんだけど、あの時はおれ、泣くしかなかったし」
などと、不思議な事を言っており、おかしかったのをよく覚えている。その感情は徳蔵にはよく理解できないものだったが、今、それに近しいものを感じている気がした。
(海坊主も、切なくて奪うしかなかったんじゃねえかな)
 二人の上方にかかる吾妻橋には、未だ人々が絶えず往来している。年の瀬だからだろうか、少し浮かれたような空気だ。徳蔵は少し考え、目線を川にやりながら、ゆっくりと海坊主に語り掛ける。
「奪いも与えもできねえ腑抜けよりよっぽどいいけどな。……人間だってお前の住処を荒らして色々奪ってんだろうが。お互い様だ」
「……そんなことを言われたのは、はじめてだ」
俯き、そうつぶやく海坊主に、徳蔵は続ける。
「俺は今日、お前のことが少しわかった気がする。お前は多分、ただ寂しいだけのやつなんだ。お前は俺とどこか似ている。不器用で、誰かと接するのが怖いくせに、実は一番誰かとの繋がりを求めている」
「……」
 自分の内面に初めて踏み込まれた海坊主は困惑し、瞳が大きく揺れた。その様子を見た徳蔵は、小さく決心をした。
「実は、最初はお前に人間の汚い部分だけを見せて、こらしめてやろうと思っていたんだが。……計画変更だ。お前は、俺と浜吉と一緒にこの町に住め」
 徳蔵の発言に、海坊主は目を見開き驚く。同時に風がぴたりと止んだ。
「お前はまだ世渡ってものを、小指の先ほども分かっちゃいねえ。だから、俺がお前に最後まで教えてやるよ」
 なんだろう、この感覚は、と海坊主は考えた。腹の底から湧き上がって、ずっと取れなかった苦いものが、ゆるゆると溶けていくような不思議な感覚だった。
 徳蔵は続ける。
「俺はな、昔とは違う意味で今も世渡りが怖い。朝起きたら夢になっていやしないか、怖えんだ。昔の孤独な自分だけがただ現実で、今の身に余る幸せは、あの時の俺が見ている夢なんじゃねえかってな……」
 徳蔵は、未だに他人の目を見て話すことが苦手だ。しかし、目の前にいるこの心細げな怪異は、ただの無垢な子供であり、昔の自分でもあるのだ。緊張が、するりとほどけた瞬間だった。今なら言える。徳蔵は、海坊主を真正面に見据えて続ける。
「しかしな、海坊主。渡世ってのは、ただ怖いだけじゃねえ。こんな俺にも、失いたくねぇものができちまった。その厄介さこそが、本当の恐ろしさだ。……だが今は、その恐ろしさが悪くねえんだ。お前にもそれを、教えてやりたくなっちまった」
 海坊主は、徳蔵をじっと見つめる。その瞳の中には、確かにおのれが映っていた。海坊主は、もう空腹を感じていなかった。
 

。参考文献
・山本野理子『浮世絵でみる!お化け図鑑』(パイインターナショナル、2016年、p192)
・青木伸広『新版 落語の名作 あらすじ100』(日本文芸社、2017年)

※作品の無断転載を禁じます。

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