【著者紹介】
江草 弥由起(えぐさ みゆき)
古典文学(中世)担当
中世和歌と歌学の研究。新古今歌壇における物語摂取の在り方、集団の中における歌人のイメージ形成、南朝歌壇、岡山ゆかりの歌人正徹の研究など。本学特殊文庫蔵の黒川家旧蔵資料(歌書関連)を対象に、黒川家の古典学を詳らかにする研究を継続して行なっている。
靴から連想する和歌に妖怪
今年(2025年)の9月も卒論テーマを深めるためのゼミ研修旅行を学生主体で実施しました。にぎやかな大所帯ゼミなので、広い部屋を借りて、みんなで食事を作って布団を並べて寝るという合宿スタイルの研修旅行で、授業の中では目にすることのない学生たちの魅力を知ることができる良い機会でもありました。ゼミ生たちの良いところをあげていくとキリがないのですが、礼儀正しく、相手を思いやり、その心をちゃんと実行に移せるところなどは、抜群に優れていると誇らしく思います。あまり大きなことを書くと大袈裟なので些細な例をあげると、今回の合宿所は玄関周りが狭い場所だったのですが、誰が言うでもなく、みんな端から詰めて靴を揃え、狭く動きにくい中でも人の靴を踏まぬよう一生懸命に注意をしている姿が微笑ましく、あたりまえに礼節を弁え、自然に人のものを大切にできる様子に、いつ社会に出ても大丈夫だと安心した次第です。卒論を無事提出できるように指導をしっかりしなくてはと、指導教員がひそかに決意を新たにした、そんなゼミ旅行でありました。
さて、脱いだ靴を揃えることが自然とできる人には、次の歌がするりと理解できるでしょう。
昆陽の池に おりゐる鴨の 一つがひ たがぬぐ沓(くつ)の 姿なるらん
「昆陽の池(注1)に降り立ってじっとしている鴨の番いの様子は、誰が脱いだ沓の姿であろうか。」という意味で、ぴたりと寄り添っている鴨の夫婦を、脱ぎ揃えられた沓に例えた歌です。脱いだ沓は揃えられるものという認識があるから、この歌は成立します。それがないと、鴨の夫婦はばらばらになってしまい、寄り添う番いを詠む情緒は生まれません。ちなみに沓は普段私たちが履いているものと少し違うものですので、参考までに下の画像を見比べてみて下さい。
浅沓(『日本国語大辞典』より)

フォルムがどことなく似ていて、例えられるのも理解できるのではないでしょうか。沓といえば、こんな妖怪が「百鬼夜行絵巻」に描かれています。
浅沓の妖怪(東京国立博物館蔵『百鬼夜行絵巻』より 。ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-3169?locale=ja)をもとに、該当箇所をトリミングし作成。)
頭に浅沓を乗せたヤマアラシのような妖怪で、悪巧みをしているようにニヤリとした表情をしています。和歌を専門とする私は、沓を冠のように頭に乗せている様子から「沓冠」を連想してしまいます。「沓冠」は和歌の形態・技法の一種で、シンプルなものは下のように
和歌の始めと終わりの一文字に定められた文字を置きます。
はなのなか 目に飽くやとて わけゆけば 心ぞともに 散りぬべらなる
桜の花をいくら見ても満足することができないという春の心を詠んだ歌の中に、「はる(春)」の言葉を忍ばせています。さらに複雑な「沓冠」も見てみましょう。
はかなしな をののを山だ つくりかね てをだにもきみ はてはふれずや
句の始めと終わりの一文字を繋げて読むと「はなをたつねてみはや(花を尋ねてみばや)」と、花を見に行きたい心が忍ばされています。この歌は贈答歌ですから、花見の誘いを「沓冠」の和歌でしているというわけです。今回紹介した2首はいずれも中世の歌学書『八雲御抄』に掲載されているもので、「沓冠」の歌はこの他にも色々確認できます。雅やかな風情の中に、なぞなぞのような言葉遊びを混ぜるという面白さを目にすると、自由に和歌を楽しめていて良いなと思うのです。何でもそうかもしれませんが、堅苦しいとだけ思ってしまうのは、自由に楽しめるだけの知識や技量が足りないだけなのかもしれません。
最後に、大学で「真の自由」を学び、その集大成である卒業論文にせっせと取り組んでいる我が学生たちに、次の歌を贈ります。
その上も つゆも思はじ 君がため 夜も寝られず 打つ打つ添削
注1:摂津国(現在の兵庫県伊丹市)にある。「こや」に「来や」を響かせる。沓の縁語。
*和歌の引用は『新編国歌大観』に拠り、漢字を当てるなど表記は私に改めた。
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