【著者紹介】
長原 しのぶ(ながはら しのぶ)
近現代文学を対象にした研究を行っている。太宰治や遠藤周作を含めた近代と現代の作家を対象にしたキリスト教と文学、戦争と文学、漫画・映画・アニメと文学などを研究テーマとする。
近現代文学を対象にした研究を行っている。太宰治や遠藤周作を含めた近代と現代の作家を対象にしたキリスト教と文学、戦争と文学、漫画・映画・アニメと文学などを研究テーマとする。
言葉が見せる世界―太宰治『小さいアルバム』の写真―
太宰治の小説『小さいアルバム』(『新潮』1942・7)は写真を描いた物語です。写真を利用した有名な太宰作品は『人間失格』(『展望』1948・6~8)の「はしがき」ですが、大庭葉蔵の3枚の写真を他者(作家である「私」)によって語らせる『人間失格』に対して、『小さいアルバム』は「私」が自分の写真を自分で語ります。あらすじは次のとおりです。
〈私〉は自宅に訪ねて来た友人にアルバムを見せ、今日に至るまでの十二枚の自分の写真の解説を始める。軽薄にニヤニヤしている高校時代の記念写真、生活の荒廃と共にやせ細った、第一創作集『晩年』の口絵写真、三十才になり、俗人と化した甲府での写真、三鷹移住後我が子を乳母車に乗せ、井の頭公園をゆく幸福な風景などが、多分の諧謔と自嘲をこめて作中の〈君〉に説明されてゆく。(注1)
描かれた12枚の写真のうち「八枚の写真については、文学アルバム等により、確認できる」(注2)ように、登場する写真は実際の太宰に関するものであり、自伝的小説ともいえます。例えば、作中で「私」が「第一創作集の「晩年」といふのが出版せられて、その創作集の初版本に、この写真」と説明する「骨と皮」「爬虫類の感じ」で「命が永くないと思つてゐました」という1枚は、『晩年』刊行(砂子屋書房、1936・6)当時の生活困窮と精神的苦悩(注3)の太宰の状況と合致します。
個人の思い出といえる「アルバム」の写真を自分で「君」に解説しながら見せていく作品のあり方は、現代の視点から捉え直すと写真や動画を投稿してコメントを載せるSNSに重ねることもできそうです。そのように考えるとこの作品がより身近に感じられます。ただし、目を引く写真という視覚情報を重視するSNSとは異なり、小説である『小さいアルバム』の写真はすべて言葉で表現されます。
〈写真〉とは「実際の様子をうつしとること。ありのままを描き出すこと。」(注4)です。『小さいアルバム』で「君」の見ている写真を読者は「私」の言葉から〈見る〉しかありません。「実際の様子」「ありのまま」の写真を言葉はどう描き出しているのでしょうか。
「実際」「ありのまま」を表現しようとすると「私」の表情やポーズ、服装など、髪の毛一本の向きにまでこだわる事細かな描写が考えられますが、実は詳細な言葉による説明は思ったほどにはなされていません。1枚目の「私」の写真は次のとおりです。
さうだ、その主任の教授にぴつたり寄り添つて腰かけて、いかにも、どうも、軽薄に、ニヤリと笑つてゐる生徒が私だ。十九歳にして、既にこのやうに技巧的である。見給へ、この約四十人の生徒の中で、笑つてゐるのは、私ひとりぢやないか。とても厳粛な筈の記念撮影に、ニヤリと笑ふなどとは、ふざけた話だ。不謹慎だ。(注5)
言葉は、集合写真の中の「私」が「ニヤリと笑つてゐる」ことだけを伝えます。写真から見えるはずの情報を想定するとあまりにも説明不足といえます。しかし、この「ニヤリ」が「軽薄」「技巧的」「不謹慎」なものであり、「以後十数年間、泣いたりわめいたり、きざに唸るやら大変な騒ぎ」を起こした「私」の人生へと繋がるのだと語られることで見えない「私」の姿がその内面まで含めて生々しく立ち上がってきます。
言葉は、見た目ではなく「私」の中身が透けて見える写真を作り出しているといえるかもしれません。それを表すように5枚目の写真は次のように綴られます。
そのころの私は、太つてゐながら、たいへん淋しかつたのですけれども、淋しさが少しも顔にあらはれず、こんな、てれた笑ひのやうな表情になつてしまふので、誰にもあまり同情されませんでした。
「実際」「ありのまま」であるはずの写真の中の顔が「私」の内面と乖離しているという事実は、言葉によって見えてくる「私」の姿にこそ真実があることを突きつけます。『小さいアルバム』の終盤で語られる「くるしい時に、ははんと馬鹿笑ひしたくなる」という「私」の性質は、太宰が頻繁に引用した「なんぢら断食するとき、かの偽善者のごとく悲しき面容をすな」(マタイ六章十六)(注6)にも重なり、「君」の目にしている写真は「私」の説明する「下手な紙芝居みたい」な言葉を伴ってはじめて本当の写真として見えてくる仕掛けとなっています。
言葉が見せる世界。同じく写真を利用した『人間失格』の構成が「はしがき」「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」「あとがき」であり、「はしがき」の写真を補完するように大庭葉蔵の「手記」(言葉)が続くのも『小さいアルバム』の言葉が見せる写真のあり方と似ています。
すべてを伝えるには限界のある言葉ですが、言葉だから伝わる世界も確かにあります。そのような言葉の力を手掛かりに物語に触れてみるとまた違った面白さを得られるかもしれません。
「小さいアルバム(イメージ)」(筆者撮影)
注
1.『太宰治全作品研究事典』(勉誠社、1995・11)
2.『太宰治大事典』(勉誠出版、2005・1)
3.1936年の太宰治はパビナール中毒治療のため入院を繰り返し、経済的困窮から周囲に
金策を依頼することが度々であった。(山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012・
12)参照)
4.『日本国語大辞典 第二版』第六巻(小学館、2001・6)
5.本文引用はすべて『太宰治全集6』(筑摩書房、1998・9)
6.「狂言の神」(『東陽』1936・10)のエピグラフより
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