日本語日本文学科

2025.06.01

唐招提寺逍遥―堀辰雄『大和路』、井上靖『天平の甍』と金堂の花文と―| 東城 敏毅 | 日文エッセイ255

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                                    【著者紹介】
                             東城 敏毅(とうじょう としき)
                                   古典文学(上代)担当     
                          奈良時代の文学、『万葉集』や『古事記』『風土記』について研究をすすめています。
       

1.唐招提寺金堂の扉の花文

 堀辰雄『大和路』収載「十月」というエッセイ(1943年)に、唐招提寺を訪れた際の以下の描写がある。

僕は急に立ちあがり、金堂の石壇の上に登って、扉の一つに近づいた。西日が丁度その古い扉の上にあたっている。そして、そこには殆(ほとん)ど色の褪(さ)めてしまった何かの花の大きな文様が五つ六つばかり妙にくっきりと浮かび出ている。そんな花文のそこに残っていることを知ったのはそのときがはじめてだった。いましがた松林の中からその日のあたっている扉のそのあたりになんだか綺麗な文様らしいものの浮き出ているのに気がつき、最初は自分の目のせいかと疑ったほどだった。

 唐招提寺は、私の好きな奈良の寺の一つであり、毎年3年生のゼミ生を連れて行くところでもある。しかし、最近はなかなか一人で訪れることもなく、ふと堀辰雄の描写にもある唐招提寺の扉の花文が気になり、その痕跡を今でも見ることができるのかどうか、いても立ってもいられなくなり、ふらっと1月の連休に訪れてみた。

2.鑑真和上と唐招提寺

 唐招提寺は、言わずと知れた、鑑真和上の寺として著名である。天平5年(733年)興福寺の僧であった栄叡(ようえい)と大安寺の僧普照(ふしょう)は、戒律を授ける戒師を日本に招くために、遣唐使にしたがい入唐。10年もの間、唐を巡歴し、当時仏教界の戒律の第一人者でもあった鑑真に出会うことになる。鑑真は二人の求めに応じて日本に渡ることを決意、渡航の試みは五度も失敗し、鑑真は失明。しかし、ついに天平勝宝5年(753年)帰国する遣唐使に便乗し、九州に到着。翌6年東大寺に迎えられ、大仏殿前で、聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇らに戒を授け、翌年には大仏殿の西に戒檀院を建立、多くの僧侶に戒律を教授することとなった。この歴史的事実と井上靖のたぐいまれなる想像力の結集により、あの著名な作品『天平の甍』(中央公論社・1957年)が誕生した。唐招提寺境内には「天平の甍」の碑も築かれている。
 唐招提寺は、鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部(にいたべ)親王の宅地を与えられ、西ノ京の地に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開いたことにはじまる。南大門をくぐった正面にその荘厳な姿を見せる金堂は、8世紀後半の創建時の姿を残す代表的な建築物である。また講堂は、平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん・役人が仕事をする役所の一つ)を移築したものであり、天平時代、平城宮の面影をとどめる唯一の建築物としてきわめて貴重な存在である。

金堂金堂

講堂講堂

御影堂から和上御廟までの小道御影堂から和上御廟までの小道

鑑真和上御廟鑑真和上御廟

鑒真(がんじん)が寂したのは、唐招提寺ができてから四年目の天平宝字七年の夏であった。弟子の僧忍基(にんき)が講堂の棟梁(とうりょう)がくじける夢を見た。忍基は驚いて、これ和上が遷化(せんげ)せんと欲する相であるとして、多勢の弟子を集めて、鑒真の肖像を描いた。この年五月六日、鑒真は結跏趺坐(けっかふざ)して、西に面して寂した。年七十六。死してもなお三日間頭部は暖かかった。(『天平の甍』より)
 

「天平の甍」の碑「天平の甍」の碑

3.2006年の花文の発見

 さて、冒頭のエッセイは、約85年前の昭和16年(1941年)の秋に、大和路を旅した堀辰雄が、大和路の先々から、多恵子夫人宛に書き綴った手紙をもとにしたものであるが、85年前には金堂の扉に花文がぼんやりとでも浮き上がっていたのである。
 実は、2006年に、約10年にわたって行われた金堂平成大修理の時に、金堂の扉の金具の下から、創建当時に描かれていた色鮮やかな文様の色彩が発見された。扉全体の調査により、2種類の宝相華(ほうそうげ・植物を図案化した中国および日本の文様)が、1つの扉に12個描かれていることが判明し、天平建築を知る成果として注目された。
 これは、奈良時代の花文の痕跡の発見として画期的なものであるが、おそらく堀辰雄が見たのは、江戸時代の修復時に描かれたものであろう。現在は、その江戸時代の修復の痕跡すらも、どのように目をこらしてみても私には全くみることができない。

 

金堂の扉金堂の扉


4.「風景」における文学の交錯
 

 文学はその地に新たな「風景」を作り上げてくれる。唐招提寺は、今からおおよそ1265年前に創建された寺であり、鑑真和上の生きていた8世紀の歴史を私たちに伝えてくれる。しかし、85年前の堀辰雄の文章が唐招提寺と重なり合い、それと同時に井上靖の『天平の甍』の登場人物とも重なり合う。文学作品が二重三重にも重なり合い、現実の「風景」として立ち上がってくる。そして、それが文学を実感することなのだろう。
 そもそも堀辰雄の『大和路』の旅も、古典文学から想像される古代生活を追体験する旅であったのだ。現代のアニメの「聖地」もまさしくそのようなものだろう。常に文化の創造とともに、新たな「聖地」が生まれているのだ。
 文学を読む、というのは、そのような贅沢な体験の積み重ねであり、奈良時代の唐招提寺に鑑真の晩年を慕いつつ、堀辰雄の見た花文の幻影を追体験することができる。これが何より嬉しいのだ。実際はその痕跡さえ見出すことができなかったとしても、実はそれはそれで嬉しい。そして、それはその文学作品を読んだ人たちだけが共有できる贅沢な体験なのだ。
 
                        (写真撮影:東城敏毅)  
                                                         画像の無断転載を禁じます                         

〔参考文献〕
堀辰雄『大和路・信濃路』(新潮文庫・1955年)
井上靖『天平の甍』(新潮文庫・1964年)

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