【著者紹介】
長原 しのぶ(ながはら しのぶ)
近現代文学担当
近現代文学を対象にした研究を行っている。
太宰治や遠藤周作を含めた近代と現代の作家を
対象にしたキリスト教と文学、戦争と文学、
漫画・映画・アニメと文学などを研究テーマとする。
長原 しのぶ(ながはら しのぶ)
近現代文学担当
近現代文学を対象にした研究を行っている。
太宰治や遠藤周作を含めた近代と現代の作家を
対象にしたキリスト教と文学、戦争と文学、
漫画・映画・アニメと文学などを研究テーマとする。
太宰治「ヴィヨンの妻」を読む―ことわざを手掛かりに―
ことわざを2つ紹介します。はじめはうそのつもりであったことが結果として本当になってしまうこと(注1)を意味する〈嘘から出た実〉と、沈黙の方がすぐれた弁舌よりも価値があるということ(注2)を意味する〈沈黙は金、雄弁は銀〉です。
さて、このことわざを切り口に太宰治「ヴィヨンの妻」(『展望』1947・3)(注3)を少し違った角度から探ってみます。どのような物語世界が見えてくるでしょうか。
泥酔状態で深夜帰ってきた夫「大谷」は、内妻「私」にいつになく優しく声をかける。普段と様子の違う夫に不安を感じていた「私」だが、案の定、椿屋の主人夫婦が泥棒を働いた夫を追って来た。「私」は夫の代わりに金を返済する約束はしたものの、返済のめどがたったわけではなく途方に暮れる。発育不良の息子を抱えた「私」は、ついに椿屋で働くようになる。(中略)その翌朝の新聞で自分を人非人だという人物評を読んだ大谷は、お金を盗んだのは家族に久しぶりでいい正月を迎えさせたかったからだという。「私」は格別うれしくもなく、「人非人でもいいぢやないの。私たちは、生きてゐさへすればいいのよ」と答える。(注4)
以上が「ヴィヨンの妻」のあらすじです。
椿屋に入り浸り、好き放題に過ごした挙げ句、大金を盗んで家に逃げ帰った大谷ですが、追いかけて来た椿屋夫婦をナイフで脅し、逃走します。「私」は、警察に通報すると息巻く椿屋夫婦に対して「何とかしてこの後始末をする」とその場を収め、翌日椿屋を訪れます。その時「私」の口からは、「お金は私が綺麗におかへし出来さうですの」「かくじつに、ここへ持つて来てくれるひとがあるのよ」という嘘がすらすら出て来て、お金が戻るまで自分が人質になって椿屋で手伝いをすると申し出ます。夫への献身的な愛情とも取れる「私」の嘘は、三好行雄が述べた「あらゆる倫理的基盤から夫を奪いながら、なおかつ、〈生きてゐさえすれば〉という日常性のただなかで夫を許し、ひきうける妻のイメージ」(注5)とも解釈できます。一方で、別の見方をすればこの嘘によって「私」は椿屋に居座ることに成功するのです。
実は、椿屋夫婦側から見ると「ヴィヨンの妻」は大谷夫婦に寄生された物語ともいえます。現に、椿屋夫婦は、お金を払わず勝手気ままに飲み食いする大谷に見込まれた自分達を「化け物みたいな人間を引受けなければならなくなつた」と嘆き、何度も遠ざけようとします。それでも離れない大谷がしでかしたのが今回の「どろぼう」です。椿屋夫婦は「警察沙汰」にすることで大谷との訣別を実行しようとしました。
そのような中での「私」の嘘は、大谷だけに留まらない大谷夫婦の寄生をもたらします。もちろん、「私」が意図的に椿屋への居続けを狙ったわけではありません。しかし、物語の最後は「あたしも、こんどから、このお店にずつと泊めてもらふ事にしようかしら」「あの家をいつまでも借りてるのは、意味ないもの」と、椿屋に住み着こうとする大谷夫婦の会話で終わります。
パラサイト的な物語と読むと怖い気もしますが、当事者である椿屋夫婦は「私」を追い出そうと思ってはいません。何故でしょうか。ことわざから考える時、2つの理由が立ち上がります。1つは〈嘘から出た実〉の通り、「私」の嘘が真実になったからです。「私」に返済能力と手段はありませんでした。お金は大谷を心配した「京橋のバーのマダム」によって戻されます。この事の顛末を椿屋夫婦は「私」の采配だと勘違いし、「私」への信頼度を高めます。ここで生じた勘違いの根っこにもう1つのことわざである〈沈黙は金〉も加わります。「はじめからかうしてかへつて来るのを見越して、このお店に先廻りして待つてゐた」のだろうと感心した口ぶりで話しかける椿屋主人に対して「私」は、「『ええ、そりやもう。』とだけ、答へて置きました」と、(肯定する)嘘と(余計なことは一切言わない)沈黙で応えます。
「ヴィヨンの妻」の語り手は「私」ですが、大谷への怒りと悔しさを滲ませる椿屋の主人による前半の長台詞が9頁(注6)に及ぶのに対し、その口数(台詞)は意外と少ないです。つまり、「私」は〈沈黙は金〉を体現した人物ともいえます。実際、椿屋の主人の長台詞に対して「私」は何も言わずに笑うだけです。沈黙は、椿屋の主人の主張を真摯に傾聴する姿勢と受け止められ、結果的に怒りの沈静化に至ります。そして、「私」の笑いは一緒に聞いている椿屋の妻にも感染し、場を和ませることに成功します。このあり方も決して計算ではありませんが、嘘と沈黙によって「私」は椿屋夫婦の懐へ上手に入り込んでいくのです。
「私」が手に入れた安住の地である椿屋は次のように描かれます。
中野のお店(引用者注:椿屋)の土間で、夫が、酒のはひつたコツプをテーブルの上に置いて、ひとり新聞を読んでゐました。コツプに午前の陽の光が当つて、きれいだと思ひました。
大谷を含む光景の全てに美しさを感じる「私」にとって椿屋は、夫との新たな関係を作り出す場として機能します。最後に発する「私たちは、生きてゐさへすればいいのよ」という「私」の姿に〈生〉へ向かう「したたかな程の強さ」(注7)を捉えることは可能です。ただし、椿屋が「私」の嘘と沈黙による寄生から成り立った場である限り、大谷夫婦の〈生〉が自主自立とは言えない仮初めであることも見逃せません。そこには、暗さと虚無的世界の張り付いた太宰らしい〈生〉の世界が広がっているといえます。
ことわざから読み解く物語。無限に広がる読みの世界と同じく、読み解く手掛かりも無限です。その手掛かりを発見する面白さも楽しみ方の1つになることでしょう。
注
1.『日本国語大辞典 第二版』第二巻(小学館、2001・2)
2.『日本国語大辞典 第二版』第九巻(小学館、2001・9)
3.本文は全て『太宰治全集10』(筑摩書房、1999・1)によった。他も同様。
4.『太宰治大事典』(勉誠出版、2005・1)
5.三好行雄『ヴィヨンの妻』(『作品論太宰治』双文社出版、1974・6)
6.本文は全32頁(『太宰治全集10』)であり、椿屋の主人の長台詞は全体の約3割近くを占める。
7.安藤宏「『ヴィヨンの妻』試論」(『解釈と鑑賞』至文堂、1988・6)
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