• Youtube
  • TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • アクセス
  • 資料請求
  • お問合せ
  • 受験生サイト
  • ENGLISH
  • 検索検索

ノートルダムの風景

2023.12.18

置かれた場所で咲く ―シスター渡辺和子が学生たちに伝えたかったこと―

Twitter

Facebook

ノートルダムの風景

『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎2012)は、ノートルダム清心学園前理事長であり、ノートルダム清心女子大学名誉学長であったシスター渡辺和子の著書です。
2012年に発行されたこの著書は、いまでも広く親しまれ世代を超えて多くの方に読まれています。実際、この本をきっかけにして入学される学生さんがあとを絶ちません。
『置かれた場所で咲きなさい』(著書紹介はこちらをご覧ください。

「置かれた場所で咲く」という言葉の由来は、シスター渡辺がかつて神父様からいただいた英詩の一部 "Bloom where God has planted you. ”です。
シスターは講義や講演、著書の中で、その言葉を紹介しています。

本学の学報である「ND BULLETIN」の中には、「置かれたところで咲く花に」と題した理事長としてのメッセージが残されています。
他にも、『渡辺和子著作集Ⅱ 心』(山陽新聞社1988)には「花の人生」と題した寄稿文が収められています。

シスター渡辺が "Bloom where God has planted you. ” を引用して、学生たちに伝えたかったことは、現代の若者の心にも響く普遍のメッセージだといえるでしょう。


『置かれたところで咲く花に』
ノートルダム清心学園 理事長 渡辺和子

 一九六三年夏のある暑い昼下がりのことでした。岡山に赴任してまだ一年の私は、八月六日に急逝された二代学長シスター・エーメ・ジュリーのお葬式の準備に忙しく立ち働いていました。その私を呼んで、アメリカ人の目上の方がおっしゃいました。
 「あなたは、次の学長になります」 戸外では、銀杏の樹にとまった蟬が、三日間の地上の命を燃焼し尽くすかのように啼いていました。そして私はと言えば、蚊の鳴くような声で「はい」と答えて、お受けしたのでした。
 管理職にふさわしい素質も経験もないことを痛いほど知っていた私は、とにかく一生懸命に一日ずつ生きることだけを心掛け、気がついてみたら、いつの間にか二十七年がたっていました。
 カトリック信者といえば、教職員の約15パーセント、学生にいたっては2パーセントに過ぎない状況の中で、「カトリック大学」であるためにはどうしたらいいのか、何を共通理念とし、それをいかに日々の教育活動の中に具現していったらよいかがわかりませんでした。そんな時、「ごたいせつ」という言葉に出会ったのです。
 四百四十年前、日本にキリスト教が渡来した際、宣教師たちは、「愛」に匹敵する言葉としてgotaixetを使ったということが文献に記されていました。学生を愛するということは外でもない、神が人間を愛し給うように、学生一人ひとりのかけがえのない価値を”ごたいせつ“にすることだと、その時気づいて、私の心は少し軽くなりました。
 人間の価値が偏差値そのものであるかのように扱われてきた学生たち、やがて、「何ができるか」という利用価値が支配する社会に否応なく出てゆく学生たちに、せめてノートルダム清心女子大学に学ぶ四年間だけでもいい、「人が人として尊ばれる場と時間」を提供したいというのが、私のささやかな願いになりました。そしてそのためには、学生よりも先に自分が学生に挨拶し、学生にほほえみかける人でありたいとも思いました。
 教職員の方たちも、私のこの小さい願いを理解し、学生を「名前で呼ぶ教育」をしてくださいました。学生もその愛に応えて、一人格である自分の価値に目ざめ、他人をも”ごたいせつ“にすることを知り、すべてのことに―苦しみにさえも―意味を見出すことを知る人たちに育ってくれました。
 アメリカに四年半、岡山に二十七年半置いていただいた私は、三十二年ぶりに亡き父母の眠る地に戻りました。置かれたところでいつも咲いていたいと思います。
 長い間、ほんとうにありがとうございました。
 
(『ノートルダム清心女子大学 Bulletin』84号特集号(1990年6月30日発行))

「花の人生」
(『渡辺和子著作集Ⅱ 心』(1988年6月1日発行 山陽新聞社)より)

 臨時教育審議会が検討していることの一つに、西欧諸国と足並みを揃えて、九月を学年度の始まりとしてはどうかという案があり、現在も、賛否両論が交わされている。
 行政的に見て、または経済的見地から良い悪い、会計年度と合う合わないといった味気ない論議が多い中で、反対派の言い分の―つに、「新学年度は、やはり、桜の花とともに始まるのが望ましい」というのがあって、何かしら心を和ませてくれる。
 桜の花と限らなくてもいいが、長く暗い冬を過ごした後に、樹々が芽吹き、花々が一斉に咲きほころぶ春は、やはり、真新しいランドセルを肩に入学する一年生、または、それぞれに新しい出発をしようとする人々の姿に似つかわしいように思える。
 日本人は古来、花というものを生活の中にとり入れ、花に心を託し、花に慰められてきた。
 私自身、「花の人生」をいつも夢見て生きてきた。幼い時のそれは、きれいな花嫁さんになることであったし、十代後半を過ごした戦時中は、空襲の度に防空壕に飛びこむことなく、お腹いっぱい食べることのできる人生という次元の低い夢だったこともある。戦後に夢見たのは、それこそ、あでやかに、華やかに自分の二十代の若さを奔放に生きることであった。
 いつからか、この「花」の意味が変わって来た。修道生活を選んだということも無関係ではないが、いつしか「花の人生」は私にとって、華やいだ人生ということから、「一輪の花」として生きるということに変わったのである。それも、大輪の、人目を引く花でなくてもいい、健気に咲く花に心ひかれるようになったのには、一つの詩が介在していたように思う。
 二十年も前のことになる。ある人が送ってくれたその詩は、英語で、 Where God has planted you, you must bloom. という言葉で始まっていた。その人の自作なのかどうか、いまだに知らない。

神が置いてくださったところで
咲きなさい。
仕方がないと諦めてでなく
「咲く」のです。

「咲く」ということは
自分が幸せに生き
他人も幸せにするということです。

「咲く」ということは
周囲の人々に あなたの笑顔が
私は幸せなのだということを
示して生きるということなのです。
 “神が私をここに置いてくださった
 それは  すばらしいことであり
 ありがたいことだ”と
あなたのすべてが
語っていることなのです。

「咲く」ということは
他の人の求めに喜んで応じ
自分にとって  ありがたくない人にも
決して嫌な顔  退屈気な態度を
見せないで生きることなのです。

 時あたかも、若くして、思いがけず与えられた管理職の重みにたえかねて、口には出さずとも「今の仕事さえなかったら、今の立場にさえ置かれていなかったら」と、心の中に呟くことの多い日々であった。

 人間は一人ひとり花である。小さい花もあれば大きい花もあり、早咲き、遅咲き、色とりどりである。店頭に飾られ、買われてゆくのもあれば、ひっそりと路傍で「花の一生」を終えるのも多い。
 花の使命は咲くことにある。他の花と比べて優劣を競うことにもなければ、何処に置かれるかにもなく、自分しか咲かせられない花を一番美しく咲かせることにある 。
 それは決して「迷い」のないことを言っているのではない。もっと日当たりの良いところだったら、もっと風当たりの少ないところだったら、もっと広々としたところだったらと、かこつことがあってもよい。
 そんな思いを抱いてもいいのだけれども、それにのみ心奪われて、みじめな思いで一生を 過ごすのでなく、置かれたところで、精いっぱい、それも詩の中にうたわれているように「咲く」こと、それがいつしか花を美しくするのである 。

“主よ 、変えられないものを
 受け容れる心の静けさと
変えられるものを
 変える勇気と
その両者を見分ける英知を
 我に与え給え”

 と言ったのは、ラインホールド・ニーバーである。
 変えられるものは、勇気をもって変えねばならない。しかし、いかに足掻いても変えられないものは、心静かに受け容れるのだ。渋面を作って、さも仕方がないというように受け容れるのではなく、主体的に受け容れてゆく。人間の自由というのは、決して、思うままにならない諸条件から自由になることではなくて、それらの諸条件を自分なりに受けとめてゆくかということにおける自由なのである。置かれたところで、自分の花を咲かせる自由といってもよい。

 一人の卒業生が手紙をくれた。
 「在学中、“あなた方には、他人の生活まで暗くする権利はありません”と授業で言われて、何ときびしい言葉だろうと思いました。それが今、結婚して、つくづくそうだと思うようになりました。それと同時に、他人によっても、自分の生活を決して暗くさせまいとも思っています」
 この人たちを送る卒業式で、たしかこう言ったと思う。
「安易な人生を願うよりも、どんな人生も笑顔で乗り切る強い人になりなさい。自分にふさわしい仕事を願うよりも、与えられた仕事を果たすに必要な力を祈り求める人になりなさい」
それは結局、私自身の日々の祈りに他ならなかった。

 ひと見るもよし
 ひと見ざるもよし
 我は咲くなり

 菊などの展示会に行ってよく思う。そこにはたしかに、見事な菊が妍(けん)を競っている。菊造りの方の一年間、またはそれ以上のご苦労が、立派な大輪の花となっているかと思えば、一方では巧緻を極めた絶妙な枝振り、姿に仕上げられている。
 感嘆はするものの、心に充たされる思いが展示会場を後にした時残らないのは、そこには、人によって「咲かせられた花」、他の花と「比べられてつく価値の花」しかなくて、自分の力で、懸命に咲く花の姿が見られないからかも知れない。

 神が置いくださったところで、今日も咲こう。人の目には場違いとしか思えなくても、神のなさることに間違いはない。とにかく、置かれたところで美しく、幸せに咲くこと、他人の心をいやし、幸せにするような花であること、そのような生き方をすることが、信仰を持って生きるというのかも知れないと思うこの頃である。
(『家庭の友 』一九八五年四月)
 
出典:『渡辺和子著作集Ⅱ 心』(1988年6月1日発行 山陽新聞社)pp.221-227転載
※許諾を得て掲載しています。

一覧にもどる