【著者紹介】
江草 弥由起(えぐさ みゆき)
古典文学(中世)担当
中世和歌の研究。
新古今歌壇における物語摂取の在り方、集団の中における歌人の
イメージ形成、南朝歌壇、岡山ゆかりの歌人正徹の研究など。
現代作品における古典作品の享受についても関心を寄せている。
江草 弥由起(えぐさ みゆき)
古典文学(中世)担当
中世和歌の研究。
新古今歌壇における物語摂取の在り方、集団の中における歌人の
イメージ形成、南朝歌壇、岡山ゆかりの歌人正徹の研究など。
現代作品における古典作品の享受についても関心を寄せている。
「飽きた」と言われたら
学生の恋愛話を聞いていると、「恋人に飽きたと言われた!」という話が少なからず話題に上がります。これまでに学生から聞いた傾向からすると、「飽きた」という言葉は相手に飽きたという意味で発せられているようです。和歌を専門とする私には、その例が少なからずあるということがなんとも馴染まず、どうにも違和感を覚えます。なぜ違和感を覚えるか? それを恋の和歌(恋歌)から考えてみたいと思います。
「飽く」という言葉自体は和歌でも度々用いられます。ただし、大抵の場合は「飽かぬ心」や「見れども飽かぬ」のように否定語を伴い、十分に満たされていない気持ちを表すことに用いられるのです。例えば、
春霞 たなびく山の 桜花 見れども飽かぬ 君にもあるかな
(古今集 恋四 648 紀友則)
友則(とものり)の歌は、春霞がたなびいている桜の花が美しく、いくら見ても満足することがない心に、愛しい相手とはいくら逢っても満ち足りることはない心を通わせて詠んだものです。さらに例をあげると、人はいさ 飽かぬ夜床に とどめつる わが心こそ 我を待つらめ
(千載集 恋三 805 源頼政)
頼政の歌は後朝の恋の心を詠んだもので、相手はどうか分からないけれど、自分は満足し切らない名残惜しい心を共寝した夜の床に留めおいてきた、その心こそは自分を待っていることだろうと、契りを交わした相手への募る思いが詠まれています。いずれにも相手への恋の思いの強さを表すのに「飽かぬ」が用いられていることが分かるでしょう。相手に「飽きた」などと詠む和歌はないのです。しかし、「恋の相手に飽きたと詠む和歌がないこと=恋人に飽きることがない」というわけではありません。和歌は恋のはじまりから終わりまでを題材とします。恋の終わりに恋人の「飽き」はつきもので、そっけなくなった恋人を恨む歌も数多く詠まれています。恋人の心変わりは「秋風」の「秋」に「飽き」をかけて詠まれます。例えば、
秋風の 吹き裏がへす 葛の葉の うらみても猶 うらめしきかな
(古今集 恋5 823 平貞文)
貞文の歌は、秋風に吹かれて翻った葛の葉がうらがわを見せるのに、自分に飽きた恋人に恨みを感じてしまう憂鬱をかけて詠んでいます。
忘れじの 言の葉いかに なりにけむ 頼めし暮れは 秋風ぞ吹く
(新古今集 恋4 1303 宜秋門院丹後)
宜秋門院丹後の歌も、夕暮れに吹く秋風に「飽き」をかけ、忘れないと言ってくれた言葉があてにならないものであったと、約束のむなしさと自分に飽きた恋人への恨めしさを詠んでいるのが分かります。私が違和感を覚えるのは、飽きた側が「飽きた」と宣言する和歌がないのに、学生から持ちかけられる恋愛相談にそういった事例が少なからずあるがためでしょう。かといって、和歌の恋歌と現実の恋愛を混同して、恋人に「飽きた」と口にする人をけしからんと責めたいわけではありません。ただ、なんだか不恰好だなぁと首を傾げてしまいます。
和歌には習い(ルール)があります。5・7・5・7・7の三十一文字であることはもちろんのこと、用いる語、歌にする題材(テーマ)、どういった場で詠むかなど、脈々と受け継がれる和歌の様々な習い(ルール)の中で人は和歌を詠みます。良いもの美しいものとされる表現をむやみに足し重ねるのではなく、言葉と着想を練り無駄を削ぎ落として三十一文字に心を落とし込んで生まれる和歌の表すものが、いい加減な美意識に基づいたものではないことは誰しもが理解するところでしょう。恋の中で相手に飽きると宣言することが恋歌に詠まれないのは、その行為が恋歌の美には相応しくない(ありていに言えばダサい)からでしかないのです。
学生の話によると、恋人に「飽きた」と言われた場合の対応は大きく分けると、①怒って相手を責める(=相手に迂闊な発言への反省を促し、考えを改めることを求める)、②傷ついて自分に非がないかを考える(=そう言わせた自分の行動を改めて、相手に許しを求める)、の2パターンになるようです。いずれも離別ではなく関係の継続を求めての対応という点では共通しています。人との関係を作る難しさに一生懸命向き合おうとする誠実さが、そうさせるのだと思います。向き合って、期待した結果が得られることもあれば、そうでないこともあるでしょう。結果が得られなかった時に、不甲斐ないと自分を責める必要はありません。なぜなら、和歌の恋の美意識からすると、恋人に「飽きた」と言う人はそもそも恋の型から逸脱していて、その人と恋をしようとするのは至難の業(無理ゲー)なのですから。もし恋人に「飽きた」と言われたら、それを口にする相手に自分の心にも「秋風が吹いてしまった」と袖にしてしまって構いません。恋をするにも嗜みが必要なのです。
*和歌の引用は『新編国歌大観』に拠り、漢字を当てるなど表記は私に改めた。
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