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日本語日本文学科

2023.09.01

断想二題(その4)|中井賢一|日文エッセイ239

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日本語日本文学科

日文エッセイ

【著者紹介】
中井 賢一(なかい けんいち)
古典文学(中古)担当
平安期を中心とした物語文学の研究
古典文学の教材化の研究

断想二題(その4)
 

一 マメタロウノ恋ノウタ 

 本学附属図書館特殊文庫蔵の稀書『豆太郎物語』を取り上げる。同書の書誌、中盤までの概要・登場人物・本文、等については、「『豆太郎物語』翻刻(上)」(『清心語文』第24号2022.11)、及び「マメタロウの大冒険、あるいは『古典』引用のカオス」(本学HP記事「《特殊文庫の魅力》第8回」2023.1)を参照されたい。 

 物語中盤、未だ体躯に成長も見られぬまま、夕日の長者の娘、常世の君への恋煩いに沈む日々を過ごすマメタロウを慰めるべく、その胸の内を知る由もない家人らが歌合(注1)を催す。文字通り、「歌合」と題されたこの章、「神無月半ば、時雨の空の降りみ降らずみ、晴れ遣らぬ心のつれづれに、歌合せして太郎が心慰めん…」との起筆が、『後撰』歌「神な月降りみ降らずみ定(さだめ)なき時雨ぞ冬の始(はじめ)なりける」(引用は『新大系』本に拠る)を直ちに想起させ、ここにも「カオス」の一端が窺えるのであるが、さて、その「歌合」は、判者(注2)を広沢(注3)から迎え、「寄山恋(山に寄する恋)」との兼題(注4)の下、いわゆる難陳歌合(注5)の形で行われる。 
 
  豆太郎、左、君(=常世の君)が傍離れぬ綾子といふ女は右と番(つが)ひし。二首の歌に、 
      左勝   豆太郎 
    消え遣らで富士の煙に立ち添ひぬ下に焦がるる海人(あま)の焚く火も 
      右    綾子 
    思ひ草積もり積もりて塵泥(ちりひぢ)の山よりもなほ深き心に 
 
 マメタロウを慰める、というそもそもの目的もあり、見ての通り、左方の「勝」で落ち着くのであるが、本「歌合」、判に先立つ左右の「難陳」もなかなかに興味深い。まず、右方が左方に「富士山の煙が中核となる歌なら『寄山恋』ではなく『寄煙恋』になる」と批判(=論難)し、それに対して左方は「後京極殿(藤原(九条)良経)に『寄山恋』の題で『消え難き下の思ひは無きものを富士も浅間も煙立てども』との類歌がある」と証歌(注6)を示しつつ反論(=陳弁)する。続けて、左方が右方に「『山よりもなほ深き心』という比況は却って浅く感じられる」と責め、それに対して右方は言い返すことができない…。いずれも、なるほどと思わされる指摘であり、また、それらをも総合した判者の判詞も的を射たものと肯われるのであるが、詳細は、別稿(『豆太郎物語』翻刻(下)」(『清心語文』第25号2023.12予定))に譲る。
 それにしてもマメタロウ、本「歌合」の良経歌といい、初めて長者の家人らと出会う際の寂蓮歌(前掲「マメタロウの大冒険、…」参照)といい、かなりの知性の持ち主らしい。さて、さような才知は、マメタロウのその後の運命にいかに関わってくるだろうか。併せ、別稿に譲ろう。

『豆太郎物語』(黒川文庫資料記号:H-62)挿絵(24丁ウ)

『豆太郎物語』(黒川文庫資料記号:H-62)挿絵(24丁ウ)

二 俊成の「源氏見ざる歌詠み」の判 

 マメタロウは「歌合」にて良経歌を引いたが、“藤原(九条)良経”“歌合”と来れば、自然、『六百番歌合』が連想されてこよう。判者、藤原俊成の「源氏見ざる歌詠みは遺恨ノ事也」(以下、『六百番歌合』の引用は『新大系』本に拠る)との苦言で有名な難陳歌合である。
 
  十三番 枯野 
      左勝   女房 
    見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに 
      右    隆信朝臣 
    霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や秋の色には心とめけむ 
 
  くだんの苦言は、「枯野」題を巡る判詞の一部として示される。左方の女房歌(注7)に対し、右方が「「草の原」、聞きよからず」と、墓所が想像されるゆえか、論難するのであるが、かかる右方の批判に対し、判者、俊成は、『源氏物語』花宴巻「うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ」(引用は『集成』本に拠る)との朧月夜歌を証歌に、「歌を詠む者は『源氏』を熟知しておけ!」と叱責する…。という次第なのであるが…。
 私には、どうにも腑に落ちない。果たして、隆信を始め右の方人たちは、俊成に納得したのであろうか。「『源氏』を熟知しておけ」との命に対して、ではない。私も、歌人に限らず全ての人々に『源氏』は二読三読されるべきと思う。そうではなく、『源氏』の熟知を迫る俊成のロジックに対して、である。「源氏見ざる歌詠みは…」の直前、俊成は「紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝也。其ノ上、花の宴の巻は、殊に艶なる物也。」と述べている。引っ掛かるのは前半部、文脈上、「紫式部は歌を詠むことよりも物語を書く力が優れている」と説いていよう所、紫式部の作歌能力への賛辞とは受け止め難いことだ。無論、その作歌を、俊成が全く評価していなかったわけはなかろうし、あるいは、和歌の専門家としての自負ゆえ、容易に礼賛もしないのであろうが、何にせよ、ここの言辞が、紫式部の作歌の賞賛を主眼とするものになっていないことは動かない。「紫式部は作歌が優れている。だから、歌を詠む者は『源氏』を熟知しておけ」と言うのなら分かるのだ。しかし、「紫式部は作歌よりも作話が優れている」と言った同じ口で、優れていない方の、紫式部作の朧月夜「うき身世に…」歌をもとに、「それを知らないとは、歌を詠む者として『遺恨』だ!」と言われても…。兎にも角にも、右の方人たちの胸中を思わずにはいられないのである。


(1)左方・右方に分かれて、詠歌・作歌・選歌等の優劣を競い合う文学的ゲーム。
(2)歌合の勝敗等を判定する審判。
(3)京都の地名。
(4)予め与えられた歌題。
(5)勝敗判定の前に、左方・右方が双方の善し悪しを議論し合う形式の歌合。 
(6)主に伝統性の主張のため、根拠として用いる歌。なお、良経歌の引用は『新編私家集大成CD-ROM版』の「秋篠月清集」に拠り、適宜、用字を改めた。
(7)実際は良経の作歌。

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