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日本語日本文学科

2023.08.16

【研究紹介】〈新発見〉 トラピスト修道院に入った宮沢賢治の同級生・タデオ修道士|日本語日本文学科 山根知子教授

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日本語日本文学科

学科ダイアリー

大学院

文学研究科

 日本語日本文学科の山根知子教授は、宮沢賢治や坪田譲治の研究を専門としています。
 この度、北海道での実地調査によって、宮沢賢治と三木露風にまつわる新しい事実を発見しました。若い日の賢治と露風の文学活動が、一層明らかになりそうです。詳しくは以下のブログをご覧下さい。
 

【著者紹介】
山根 知子(やまね ともこ)
近代文学担当

宮沢賢治・坪田譲治を中心に、
明治・大正の小説や詩および児童文学を研究しています。

 

 

〈新発見〉
トラピスト修道院に入った宮沢賢治の同級生・タデオ修道士

 


宮沢賢治とカトリック詩人・三木露風との関係を探る研究から

 2021年に、宮沢賢治に関する新発見の報がありました。それは賢治が、1924年、生前唯一の自費出版詩集『春と修羅』を刊行した際に、その詩集をカトリック詩人・三木露風に贈っていたことが、露風の直筆ノート(兵庫県たつの市・霞城館蔵)から判明したというニュースでした。そのとき三木露風は、北海道の函館近くにあるカトリックのトラピスト修道院に教師として在住していましたので、当時の賢治が、露風がトラピスト修道院にいることを知っていて、修道院あてに送付したこともわかったのです。 
 その詳細については、発見を公にした近藤健史「三木露風と宮沢賢治の文学的交流」『研究紀要』第35号(2021年8月 日本大学通信教育部通信教育研究所)によって教えられ、近藤氏の導きにより私も霞城館でノート現物を調査することができました。露風のノートでは、露風が詩集を読んで、賢治に「賞讃を惜しまぬ」という返事を送った記録を残していることから、露風が賢治の詩を深く受けとめたことは賢治に伝わっているといえます。 
 賢治は、この詩集『春と修羅』を「宗教家」をはじめとするさまざまな人たちに贈ったが期待した反応が得られなかったと、翌年の書簡で書いています。しかし、カトリック詩人である露風から評価の言葉を得ていたことは、賢治にとって大変貴重だったと思われます。 
 そのような認識を得たおかげで、私はその後出版した拙著『賢治の前を歩んだ妹 宮沢トシの勇進』(春風社 2023年3月)において、賢治が露風とトラピスト修道院に寄せた思いについて、妹トシへの思いに重ねて触れることができました。

 

北海道・トラピスト修道院での発見

 こうした経緯を経て、私は2023年6月に、祈りと労働に専心する男子修道院であるこのトラピスト修道院に、調査に訪れる特別な機会を𠮷元邦彦修道院長よりいただくことができました。詩人・露風は、初めてここを訪れたときにフランスの修道女テレジアの自叙伝を読んだことから、カトリックの洗礼を受けることを決意します。私は、露風の歩いた修道院への道を歩きながら、露風が、その後トラピスト修道院で日本文学の教師として4年を過ごした生活へと導かれたことがしみじみと実感されました。 
 さて、ここでそうした露風に関する調査の目的は満たせましたが、さらに新たな発見がそこに待ち受けていようとは思いもしませんでした。ただ、振り返ってみれば、これまでもフィールドワークをするときには、その現場でさまざまな資料からの示唆や実感を得るとともに関係者の方からの貴重なお話を伺うことで、さらに意外な出会いが導かれてきたことはしばしばありました。 
 今回の思わぬ出会いの一つは、個人的な再会、もう一つは、研究上の新たな発見でした。 
 まず一つ目の再会については、初めて訪れたトラピスト修道院であるにもかかわらず、𠮷元修道院長が、お一人の農作業服を着て帽子を被った方を、「懐かしいでしょう、M神父さんですよ」とご紹介くださったことから展開しはじめました。すぐには気づくことができませんでしたが、その方が、私の地元のカトリック岡山教会でかつて主任司祭をされ、わが家族も大変お世話になっていた神父様だとわかり、驚いてしまいました。教区の神父が修道会に入って修道士の道を歩まれるのはとても珍しいことだそうですが、そのあと打ち解けてこれまでのお話を伺うなかで、M神父が神を中心にした信仰生活をきわめようとする思いの深さにふれて、私自身、その祈りに少しでも心を合わせることができればと身が引き締まるように思われました。 

トラピスト修道院への道

トラピスト修道院への道

賢治とタデオ修道士 

 もう一つの研究上の発見を導いてくださったのも、このM神父でした。以前から宮沢賢治についての関心を深めていたM神父は、「このトラピスト修道院に宮沢賢治の同級生がいたんですよ」とお教えくださいました。 
 すでに𠮷元修道院長は、三木露風がいた時代のトラピスト修道院関係資料を、客室の机上にたくさん出してくださっていたのですが、賢治の同級生である修道士の話が出されてから、その修道士に関する記事が出ている可能性のある資料をさらにお持ちくださり、ページをめくる私の心も熱を帯びてきました。 
 その同級生の本名は「道又弥三郎」で、修道名はタデオ修道士です。M神父は、その本名のなかに又三郎という文字が入っていることから、賢治の童話「風の又三郎」の着想元だったのではないかと推測していました。私は、作中で又三郎と呼ばれる高田三郎が「北海道の学校」からの転校生として北海道との関連をもって描かれることを想い、その推測に説得力を感じてきました。 
 タデオ修道士は、修道院の資料によると、宮沢賢治とは中学時代、「机を並べて勉強したことが自慢の種」だったと書かれています。このことは、タデオ修道士自身が自慢していたことによって、当時の修道院内ではよく知られていたようでした。さらに、タデオ修道士の短歌が掲載された資料も見つかりました。 

修道院の三木露風詩碑

修道院の三木露風詩碑

 短歌といえば、賢治においても文学創作に最初に着手したのは、中学校時代の短歌です。ということは、タデオ修道士と賢治は、盛岡中学校時代の短歌ブームのなかで、歌を作り始めた者同士であったといえます。二人が短歌に打ち込んだ教室での様子も想像されてきます。さらに、賢治が三木露風に詩集『春と修羅』を送った時期においては、ちょうどタデオ修道士が三木露風に文学を教わっていた可能性も考えられるのです。 
 調査の旅から戻り、胸高鳴る思いで『新校本宮沢賢治全集』(筑摩書房)に収められた盛岡中学校関係資料の頁を開くと、同級生の五十音順の名簿に「道又弥三郎 宮沢賢治」と、二人が隣り合って表記されているのが目に飛び込んできました。実際にこの席順で並んだこともあったでしょうから、タデオ修道士が賢治と「机を並べて勉強していた」と語っていたのも、まさに言葉通りだったのでしょう。
 タデオ修道士が中学時代以降、こうした厳しい信仰への道を選び歩みを進めたことについて、賢治がいかなるまなざしを注いでいたかは注目に値します。そうした点でこの発見は、賢治とキリスト教についての論考を重ねている私にとって重要な意味を持つものであり、次なる論文において実証的に論究し発表することを準備しています。 

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