言葉の意味 ―「はな(花)」を例に―
星野 佳之 (日本語学担当)
古代語・現代語の意味・文法的分野を研究しています。
文は話者の判断に対応して成されるものであって、何らかに意味内容を持つ。「きゃあ」という悲鳴でさえ、そうである。
その「文」は語によって構成されるが、では「語」の全てに意味は宿るか。むかし恩師は「全ての語には意味と文法機能が備わる」と教えてくれたが、私は今そうは考えないようになった。「が」「を」「に」などは、文法機能専用の語で、意味は持たないのではないのか。「助詞」と呼ばれる類の全てがそうだというのではない。例えば
「学校からの道」
「三時までの会議」
など「から」「まで」のような助詞は、文法機能だけでなく意味も持つだろう。しかし
「○ 花子が帰る」
が言えても
「× 花子がの帰宅」
とは言えず、或いは
「○ 花子を褒める」「○ 花子に尋ねる」
も、
「× 花子をの称賛」「× 花子にの質問」
などとは言えない。この「が」「を」「に」の三者は、数少ない「文法機能専用の語」なのではないか。恩師はすでに故人となったが、時が満ちたら改めて聞いてみたい。
*
一方、名詞という語類は意味の表現を本務とし、全てが意味を持つだろう。「もの」「こと」など、具体性が極端に希薄な語でさえも、それぞれ意味の存在は自明である。
とはいえ語の意味は、時として説明しづらい。例えば「はな(花)」という言葉。この言葉は外国人学習者を含め、日本語を話す人ならばまず誰でも知っているだろうけれども、ならばその「意味」も、誰でも説明ができるかと言えばそうではない。私は今年複数の大学で「語の意味を考える」授業を開講しているが、どこの学生もまずは「はな」について苦戦する。当たり前すぎて、説明を求められることがまず意外なのであろう。教室ではそうした少しの呻吟の後に、「植物の、おしべやめしべ、花弁などからなる、受粉のための器官」といった記述の言葉が紡がれることになる。
しかしこれで十分であろうか。否である。例えば『日本国語大辞典』(小学館)の「はな【花・華・英】」の項は、
「植物の器官の一つで、一定の時期に 美しい色彩を帯びて形づくるもの。」
という記述を第一に置く。先の私たちの授業での、客観に徹したかのような試解に対して、こちらは「美しい色彩を帯びて」という感覚的とも思える部分がある。これは余分なようで、日本語学としてはむしろ正しい。なぜならこの部分があるからこそ、
「あの人にははな(華)がある。」
といった、植物の器官とは無関係な用法との繋がりも、説明できるようになるからである。
そういう目で見ると、この辞書の記述の「一定の時期に」という部分も、意味深長というべきである。
「言われているうちがはなだよ」
などは、「今が盛りであること」と「それが永続しないこと」との二つが、ともに踏まえられている。眼前の栄えを「散る」前の段階として見る用法なのであって、「一定の時期に」という記述には、それへの回路をさりげなく託したものに違いない。
これと同様の行き方で、しかし更に踏み込んで前田富祺(まえだ・とみよし)という研究者は
「木・草の枝や茎の先に咲いて、色・形の美しさや香りなどで四季折々に人の心をひきつけるもの」
と記述した※。この「色・形の美しさや香りなどで…人の心をひきつける」という書き方は、
「先輩にはなを持たせてやった」
などのような、「実質的部分に対して、目立つ部分」を見る用法との繋がりを、うまく説明するものだと思う。だから私などは、「実(み)になる部分に対して」という説明も付け加えたいと思うのだ。
とはいえ語の意味は、時として説明しづらい。例えば「はな(花)」という言葉。この言葉は外国人学習者を含め、日本語を話す人ならばまず誰でも知っているだろうけれども、ならばその「意味」も、誰でも説明ができるかと言えばそうではない。私は今年複数の大学で「語の意味を考える」授業を開講しているが、どこの学生もまずは「はな」について苦戦する。当たり前すぎて、説明を求められることがまず意外なのであろう。教室ではそうした少しの呻吟の後に、「植物の、おしべやめしべ、花弁などからなる、受粉のための器官」といった記述の言葉が紡がれることになる。
しかしこれで十分であろうか。否である。例えば『日本国語大辞典』(小学館)の「はな【花・華・英】」の項は、
「植物の器官の一つで、一定の時期に 美しい色彩を帯びて形づくるもの。」
という記述を第一に置く。先の私たちの授業での、客観に徹したかのような試解に対して、こちらは「美しい色彩を帯びて」という感覚的とも思える部分がある。これは余分なようで、日本語学としてはむしろ正しい。なぜならこの部分があるからこそ、
「あの人にははな(華)がある。」
といった、植物の器官とは無関係な用法との繋がりも、説明できるようになるからである。
そういう目で見ると、この辞書の記述の「一定の時期に」という部分も、意味深長というべきである。
「言われているうちがはなだよ」
などは、「今が盛りであること」と「それが永続しないこと」との二つが、ともに踏まえられている。眼前の栄えを「散る」前の段階として見る用法なのであって、「一定の時期に」という記述には、それへの回路をさりげなく託したものに違いない。
これと同様の行き方で、しかし更に踏み込んで前田富祺(まえだ・とみよし)という研究者は
「木・草の枝や茎の先に咲いて、色・形の美しさや香りなどで四季折々に人の心をひきつけるもの」
と記述した※。この「色・形の美しさや香りなどで…人の心をひきつける」という書き方は、
「先輩にはなを持たせてやった」
などのような、「実質的部分に対して、目立つ部分」を見る用法との繋がりを、うまく説明するものだと思う。だから私などは、「実(み)になる部分に対して」という説明も付け加えたいと思うのだ。
*
もう一つ、語「はな」について気になるのは次の用法である。
「会話に花が咲く」
教室では最初、「盛り上がること」だという意見が出された。それで特段問題ないようだけれども、やはり不足がある。例えば「今日の授業は内容がおもしろく、学生の反応も良かった」「一組の芸人がネタを披露して大いにウケた」とかいう場面で、「(授業に/漫才に)×花が咲いた」とは決して言わないから、単に「盛り上がる」という語に置き換えるだけでは十分ではないのだ。
この用法が表す状況をよくよく探っていけば、それはその場の誰もが潜在的なスピーカーで、そのうち誰かがぽつりぽつりと話し始め、時を置かずに一堂が話者として顕在して満ち足りた状況になるという、そうした会話の展開の表現であることに思い至るはずだ。この場合、花は花でも一輪のチューリップなどではなく、「木・草の枝の先」に複数の花がつく、桜のような花のあり方が前提なのだろう。「蕾のままの部分」が優勢な状況から、「開花した部分」に統一されていく推移が、この用法の根本を支えていると考えられる。
「会話に花が咲く」
教室では最初、「盛り上がること」だという意見が出された。それで特段問題ないようだけれども、やはり不足がある。例えば「今日の授業は内容がおもしろく、学生の反応も良かった」「一組の芸人がネタを披露して大いにウケた」とかいう場面で、「(授業に/漫才に)×花が咲いた」とは決して言わないから、単に「盛り上がる」という語に置き換えるだけでは十分ではないのだ。
この用法が表す状況をよくよく探っていけば、それはその場の誰もが潜在的なスピーカーで、そのうち誰かがぽつりぽつりと話し始め、時を置かずに一堂が話者として顕在して満ち足りた状況になるという、そうした会話の展開の表現であることに思い至るはずだ。この場合、花は花でも一輪のチューリップなどではなく、「木・草の枝の先」に複数の花がつく、桜のような花のあり方が前提なのだろう。「蕾のままの部分」が優勢な状況から、「開花した部分」に統一されていく推移が、この用法の根本を支えていると考えられる。
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「はな」という言葉をこのように使う私たちは、つまり往々にして花を花だけで見ようとしない。盛りの際には散った姿を、目を引く手柄にはその実質の部分を、そして満開に至った際にはまだ残る蕾を、傍らや背後に見て「はな」という言葉を用いているようなのである。だから
「両手にはな」
などの言い方は、やはり警戒すべきであろう。両脇に立つ人たちを、「目を引く」などという言い方でモノのように扱うだけでなく、「実質を持たない」とあなどってはいないか。言葉を知ることは私たちを知ることだと、再度述べておきたい。
※ 前田富祺「萬葉の花―花の言語文化史序説として―」(『萬葉集の世界とその展開』白帝社、1998)
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「両手にはな」
などの言い方は、やはり警戒すべきであろう。両脇に立つ人たちを、「目を引く」などという言い方でモノのように扱うだけでなく、「実質を持たない」とあなどってはいないか。言葉を知ることは私たちを知ることだと、再度述べておきたい。
※ 前田富祺「萬葉の花―花の言語文化史序説として―」(『萬葉集の世界とその展開』白帝社、1998)
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