• Youtube
  • TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • アクセス
  • 資料請求
  • お問合せ
  • 受験生サイト
  • ENGLISH
  • 検索検索

日本語日本文学科

2024.06.01

筑波山と富士山のただならぬ関係―『常陸国風土記』の神話を読む― | 東城 敏毅 | 日文エッセイ246

Twitter

Facebook

日本語日本文学科

日文エッセイ

【著者紹介】
東城 敏毅 (とうじょう としき)
古典文学(上代)担当

奈良時代の文学、『万葉集』や『古事記』『風土記』について研究をすすめています。
 
筑波山と富士山のただならぬ関係
―『常陸国風土記』の神話を読む―

 713年から715年頃に編纂されたと考えられる『常陸国風土記』は、「古老」の伝える語りごとに重きがおかれ、歌垣(うたがき)や倭武(やまとたける)天皇の巡行説話等、物語性に富む多くの神話を含んでいる。『古事記』や『日本書紀』では、景行天皇の皇子とされるヤマトタケルは、『風土記』では、倭武天皇として頻繁に登場し、常陸国の各地を巡行し、多くの伝承を残しているのである。また、以下のような、富士山と筑波山とを対比させる興味深い神話も収載されている。

 昔、祖先の神さまが、旅の途中、駿河の国の福慈岳(ふじのやま・富士山)で日が暮れてしまった。そこで富士の神に宿を請うと、「今宵は新穀の収穫祭で家中こもって物忌(ものいみ)をしています。今日のところはご勘弁下さい」と断られた。大神は、悲しみ残念がって、「どうして親を泊めようとしないのか。お前の住む山は、お前の命が果てるまで、冬も夏も雪や霜に覆われ、人々が登ることもないであろう」とおっしゃった。さて今度は、筑波の山に登って宿を請うと、筑波の神は、「今宵は新嘗(にいなめ)の祭をしておりますが、親神さまの仰せをお受けしないわけにはいきますまい」と申し、飲食物を供えて、敬い拝みつつしんでもてなした。大神はいたく喜んで寿(ことほ)ぎの歌を詠まれた。このようなわけで、富士山はいつも雪に覆われて登ることができない一方、筑波山は、人が登り行き集まって歌い舞い、酒を飲み、物を食べることが今に至るまで絶えることがないのである。

 いわゆる尊い神が巡行し、その神を手厚くもてなすものが栄えるという、神話体系の一類型であるが、本神話には、常陸国の人々に親しまれていた筑波山の性格が明確に描き出されている。
 筑波山は、標高877メートルの山であるが、『風土記』において、「雲より高く突き抜け、頂上は西の峰が高くけわしいので雄の神といって、人の登頂を許さない。ただし、東の峰は四方いずれも岩石のため、登り降りはごつごつとして段差があるものの、その側の泉の流れは冬も夏も涸れることがない」とされるように、現在でも男体山(西の峰)と女体山(東の峰)の二嶺から成っており、男体山山頂にはイザナキの尊、女体山山頂にはイザナミの尊が祭られる拝殿がある。また、巨石・奇石等が多く散在しており、古墳時代や奈良時代から、石の重要な採石場であり、筑波山の石が山麓の川(桜川等)から霞ヶ浦に抜けて、多くの国々に運ばれていった痕跡をたどることができる。
 その山頂からは、まさしく一都六県にまたがる関東平野の向こうに、雪をかぶる富士の姿を明確に、はっきりと見て取ることができる。山頂からは、目下に広がる霞ヶ浦、箱根山、日光の白根山、上毛三山等を見渡すことができるが、富士山は、他の山を抜きんでて、その山頂の雪の頂を私たちの目の前に見せてくれるのである。以前、稲荷山鉄剣(いなりやまてっけん)として著名な、埼玉県行田市にある「さきたま古墳群」の稲荷山古墳からも、雪の頂を美しく抱く富士山を眺めたことがあるが、やはり富士山は、関東一円から目にすることができる、特別な霊峰であったのだろう。したがって、『風土記』に描かれる富士山と筑波山との神話は、伝聞上の霊峰富士山と、身近な親近感のある筑波山、という単純な対比なのではなく、常に目にすることのある、ともに身近な山として認識していた二山との比較として読む必要があるだろう。

筑波山から眺める富士山の夕べ

筑波山から眺める富士山の夕べ

女体山から見る男体山と富士山(左奥)

女体山から見る男体山と富士山(左奥)

埼玉県行田市稲荷山古墳からの富士山

埼玉県行田市稲荷山古墳からの富士山

筑波郡郡衙(ぐんが:郡の役所)跡である平沢官衙遺跡と筑波山

筑波郡郡衙(ぐんが:郡の役所)跡である平沢官衙遺跡と筑波山

 また、「足柄の坂から東側の諸国の男女は、春の花咲く時、秋の木の葉が色づく時に、たがいに手を取り合い連れだち、飲食物を持参して、馬でも徒歩でも登り、遊び楽しみ足を止めて休息する。そこで歌われた歌はとても多い」とされるように、当時、筑波山は多くの人々が集い、歌を詠み、飲食して遊び楽しむ「歌垣」の場としても、著名な山であり、その光景は、『万葉集』でも詠まれている。
 「歌垣」とは、主に春や秋に神聖な山や海辺、市などに老若男女が集まり、歌舞飲食に興じながら、恋の歌をかけあって、結婚相手を探した古代の民俗行事である。現在、筑波山の麓に「夫女ヶ石」という巨石があるが、古代には、この巨石の周りで「歌垣」が行われたと伝えられている。『風土記』には、「筑波山の歌垣の集いに結納の品を交わさなかった者は、一人前の男女と言えない」という当時の諺を伝えている。
 現在この場所は、「筑波ふれあいの里」というキャンプ場の一角であり、バーべキュー場やコテージが併設されているが(2025年3月31日までは改修工事中)、710年頃の「歌垣」の場と、2024年のキャンプ場が、時間を超えて、同じ空間で重なっているのは興味深い。

夫女ヶ石前のキャンプ場施設

夫女ヶ石前のキャンプ場施設

夫女ヶ石(伝歌垣の場)

夫女ヶ石(伝歌垣の場)

 関東平野にたたずむ富士の峰を、筑波山から眺めながらの夕べの一時は、その感激もあいまって、私自身ひときわ心の奥に刻まれる思い出となったのである。
 
(参考)中村啓信監修・訳注『風土記 上』(角川ソフィア文庫・2015年)

(写真撮影:東城敏毅) 
画像の無断転載を禁じます

 

日本語日本文学科(学科紹介)
日本語日本文学科(ブログ)
東城敏毅教授(ブログ)
東城敏毅教授(教員紹介)

 

一覧にもどる