江草 弥由起(えぐさ みゆき)
古典文学(中世)担当
中世和歌の研究。
新古今歌壇における物語摂取の在り方、集団の中における歌人の
イメージ形成、南朝歌壇、岡山ゆかりの歌人正徹の研究など。
現代作品における古典作品の享受についても関心を寄せている。
歌会の「場」
人が集い興じることを控えなくてはならない日々が今も続いています。特に不便を感じない人もいれば、口惜しくてしょうがない人もいるでしょう。今回は人が集い和歌に興じた「歌会」についてお話したいと思います。
「歌会」は文字通り歌を詠む会合のことで、格式高いものから宴の席で参加者が盃を取りつつ詠んで回るものまで幅広く意味します。新年にTVなどで見ることができる宮中の「歌会始」などは、誰でも気軽に参加できるようなものではない格式の高い歌会です。余談ですが、本学の卒業生が歌会始に招かれたことがあります。※ノートルダム清心女子大学BULLETIN(学報)Vol.3 p.13に特集を掲載しています。現代において格式の高い歌会に参加できることは滅多にありませんから、歌の才によりその場を知ることができたことは何にも代えがたい素晴らしい経験だと思います。
さて「歌会」で詠む歌は贈答歌と異なり、歌題という歌のテーマが出され、それに沿って歌を詠じます。歌題が当日出されるものは「当座」といい、事前に出されて推敲し懐紙(茶道で使う懐紙よりずっと大きいものです)に清書して参加するものは「兼日」と言います。集めた歌は歌い上げられ、その場にいる人々に披露されます。その和歌を歌い上げることを「披講(ひこう)」と言います。披講には流派があり、歌会始めの儀では綾小路流で歌われます。綾小路流披講には甲調と乙調、高い音で歌う上甲調とあります。
「歌会」は人が参集し行われる会ですから進行の段取りや場の設え、懐紙書式といった体裁を整えることが重要であり、その知識は歌人らにとって必須のものとされ、平安末期頃には歌会の作法を伝書化したもの(『袋草紙』『和歌会次第』など)が登場するようになりました。「歌会」の場を作り上げるには、和歌や披講だけではなく、実施場所や参加者の選定、和歌懐紙を載せる箱や台、場の装飾など様々な物事の準備が必要となります。趣向を凝らし用意された場から、五感をそして人心の交流を通して生まれる文芸がそこには存在します。舞台芸術が演者らだけで作られるのでなく、観客に見られることで完成することに通じるところがあるかもしれません。歌集に所収された歌会の歌を鑑賞する時、その歌会はどういう「場」であったのか、そこでどのように受け止められたのだろうか、その「場」で披露するために詠者はどう準備をしたのか、様々に考えを巡らせます。歌会の「場」そのものが文芸と表されるくらいです。
「場」から生み出されるものがあり、「場」を作り出すためのものがあること、そして「場」を作るために人が何を考えどう動いたのかを考えることが、人文学研究の楽しみのひとつであると思います。
学びの「場」
2020年度から、大学における学ぶ「場」が大きく変容しました。対面授業の「場」で育む学びにすっかり慣れきっていた中で、突如としてその「場」が利用できなくなり、新たに学ぶ「場」を作り出して行く必要に迫られたのです。学ぶ内容だけではなく、従来の学ぶ「場」において行われる知識の交換、人心の交流、肌で感じる場の空気といったものを通して生まれる学びがどうであったかを思考することは、古典の文芸の「場」を思考することに通うところがあります。大きく違うところは、その「場」の経験を有しているか否かです。経験は有効な学びの手段であり、決断する際の判断基準にもなるものですが、それにより思考にバイアスがかかることもありますし、感傷的な思いがそうさせることもあります。
現大学生そしてこれから大学で学ぶことを志す人々は、何を学ぶかだけではなく、学ぶ「場」を探し選んでいくことの大切さと難しさに直面することになるでしょう。どの「場」に身を置きたいのか、情報を集め精査し、考え尽くし、選択して下さい。その過程そのものが「場」を考える学びの一環なのです。
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