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日本語日本文学科

2021.06.01

時代を超えた文学の楽しみ方—太宰治「畜犬談」を読む—|長原しのぶ|日文エッセイ212

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日本語日本文学科

日文エッセイ

【著者紹介】
長原 しのぶ(ながはら しのぶ)
近現代文学担当
太宰治や遠藤周作を含めた近代と現代の作家を対象にしたキリスト教と
文学、戦争と文学、漫画・映画・アニメと文学などを研究テーマとする。
 
 
時代を超えた文学の楽しみ方—太宰治「畜犬談」を読む—


 私が太宰治の作品の中で唯一嫌いな作品は「畜犬談」です。おそらくそれは、私が現代の視点で犬を愛する心が強いからではないかと考えます。
 「畜犬談」は「ある早春、子犬が私の後ろをついてきて、そのまま家に居座ってしまった。仕方なくポチと呼び、いつ喰いつかれるのかとビクビクしながら世話をする。そのうちに私は引越しすることになり、ポチを置きざりにする絶好の機会だと思うのだが、その折ポチが皮膚病にかかる。思い切って殺そうとするが、失敗し私は結局ポチと一緒に生活していこうと決意する。」(『太宰治大事典』)という物語です。

文字がもたらす物語のイメージという問題
 「畜犬」とは「犬を飼うこと。また、その犬。飼い犬。」(『日本国語大辞典 第二版』)を意味します。犬嫌いの主人公である「私」がひょんなことから犬を飼い始める物語の題名として辞書的に特段の問題はありません。しかし、言葉の意味からは離れて犬の上に「畜」という漢字が付されることに何とも言えない気持ちになります。
 「畜」が使われる他の言葉を探してみましょう。もちろん「家畜」のように飼育する鳥獣を指す語もありますが、辞書には「畜生侍」(武士道に外れる行ないをした侍をののしっていう語)、「畜生面」(畜生のような顔つき。また、義理や人情を知らない者をののしっていう語)、「畜生道」(仏語。六道の一つ。悪業の報いによって導かれた畜生の世界。またはその生存の状態)などが並びます。つまり、「畜」は「畜生」が持つ「他人をののしっていう語」という意味である「ちきしょう」というマイナスのイメージを抱かせてしまうのです。

現代社会から見た「畜犬談」の世界
 現代社会において犬(もちろん猫も)は家族の一員としての地位をますます確固たるものとしています。犬を犬と言わずに「うちの子」と表現する人も多いでしょう。「動物愛護管理法」も改正(令和元年6月)され動物虐待と遺棄には厳しい罰則も科せられます。このような現代的な事情が感覚として根差した中で「畜犬談」を読むと、物語はまさに反社会的としかいいようがないのです。

  この犬をこのまま忘れたふりして、ここへ置いて、さつさと汽車に乗つて東京へ行つてしまへば、まさか犬も、笹子峠を越えて三鷹村まで追ひかけて来ることはなからう。私たちは、ポチを捨てたのではない。全くうつかりして連れて行くことを忘れたのである。罪にはならない。またポチに恨まれる筋合も無い。復讐されるわけはない。(「畜犬談」)

 「私」と妻はポチを捨てる相談をします。ACジャパンのCMで子犬を見つめる親子が「親切な人に見つけてもらってね」と優しく声を掛けるアニメーションがテレビに流れました。その直後、「優しく聞こえてもそれは犯罪です」と厳しい声が続きます。令和の今、犬を捨てようとする「畜犬談」の「私」と妻は社会的に糾弾されるべき存在といえます。さらに、「畜犬談」では次の会話が展開します。

  ポチが、皮膚病にやられちやつた。これが、またひどいのである。さすがに形容をはばかるが、惨状、眼をそむけしむるものがあつたのである。折からの炎熱と共に、ただならぬ悪臭を放つやうになつた。こんどは家内が、まゐつてしまつた。
  「ご近所にわるいわ。殺して下さい。」女は、かうなると男よりも冷酷で、度胸がいい。

 

 「私」は妻の言葉に戸惑いながらもポチを殺すために薬を飲ませます。最終的に薬の効かなかったポチが生き残ったことで「ゆるしてやろうよ。あいつには、罪が無かつたんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だつた筈なんだ。」と「私」は唐突に「弱者の友」の顔をちらつかせて妻の説得にあたります。そして、物語の最後はポチを東京に連れて行くという「私」の決断で閉じられます。
 中断したとはいえ、飼い犬を殺そうとした「私」の許されない虐待の事実は残ります。以上の場面から「畜犬談」は動物への適正な対応を欠いた社会的な悪という人間の行動を描いた作品との切り取り方も可能なわけです。

文学の遊び方
 さて、もちろん「畜犬談」は令和の現在を時代背景にした物語ではありません。発表されたのは1939(昭和14)年です。当時は動物愛護の感覚も薄く、虐待への明確な法的罰則があるわけでもありません。「私」には生き物に対する一般的な倫理観と道徳観があるだけです。その「私」と妻からすればポチに対する数々の所業は社会的に非難されるものではなく、物語のテーマも動物虐待という社会問題を軸にする必要はないといえます。
 作品研究という観点からいえば「私」の語りに着目し、「ポチの再生に「私」の「芸術家」としての再生を重ね合わせること。そこに一篇のねらいがあることはまちがいない。」(『太宰治の小説の〈笑い〉』)と指摘されるように、発表当時を背景に置いた上で物語言説そのものが何を志向しているのかとの追究が重要となるでしょう。しかし、純粋に物語を楽しむ読者という立場に立てば、近代文学という、令和の現在からはすでに古典になりつつある遠い明治・大正・昭和の作品をどう読み継いでいくのかも大事になるのではないでしょうか。
 「畜犬談」を嫌いであることと「畜犬談」を研究対象にしないことは重なりません。私は太宰文学の流れの一つとして「畜犬談」を捉えます。一方で近代文学を過去の遺物として捉えるのではなく、現在も未来もずっと永遠に楽しみ続けるには好きとか嫌いという読者の感情が支えになると考えます。当初発表した作品の狙いとは離れた視点であっても、読者が自身の生きる時代の中で磨いた感性でもって作品を読み楽しむのも一つではないでしょうか。
 「作品を、作家から離れた署名なしの一個の生き物として独立させて呉れ」(「一歩前進二歩退却」)と太宰治は言っています。作家の手から離れて自立した作品が読者にどのように享受されようが太宰治は決して文句を言わないでしょう。文学の無限の楽しみ方を私たちはしていきましょう。

【参考文献】
斎藤理生『太宰治の小説の〈笑い〉』(2013・双文社出版)
『太宰治全集4』(1998・筑摩書房)
『太宰治全集11』(1999・筑摩書房)
『太宰治大事典』(2005・勉誠出版)
『日本国語大辞典 第二版』第八巻(2001・小学館)


長原しのぶ教授(教員紹介)
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