• Youtube
  • TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • アクセス
  • 資料請求
  • お問合せ
  • 受験生サイト
  • ENGLISH
  • 検索検索

日本語日本文学科

2021.03.13

学生の作品紹介|「私は」(田中 千晴) 文学創作論・ 文集第18集『黎明』(2020年度)より

Twitter

Facebook

日本語日本文学科

文学創作論

本学科の授業科目「文学創作論」では、履修生が1年をかけて作り上げた作品をまとめて、文集を発行しています。
ここでは、第18集『黎明』に掲載の一作を、ご紹介します。
文集は、オープンキャンパスなどでご希望の方にお渡ししております。機会がありましたらぜひお手にとってみてください。
 

第18集文集『黎明』(2020年度)表紙

第18集文集『黎明』(2020年度)表紙



私は
作・田中 千晴



 私は読書が好きだ。だからよく近所の図書館で本を読む。しかし、たまに栞代わりにそこらにある紙をちぎって挟んだまま取り出すのを忘れて戻してしまうことがある。いつもなら、まあいいか、と思って放置するのだが、今回は落書きを書いた切れ端を挟んでいたので、誰かに見られたらと思うと気恥ずかしい。だから今、わざわざ閉館時間ギリギリの図書館に回収しに向かっているのだ。
 図書館に入り、階段を降り、書庫に向かう。ここの図書館は書庫を一般にも開放している。古びた本ばかりが所蔵されており滅多に人が来ない静かな場所なので、読書をするのにうってつけの場所だ。
本の納められている棚の前に立ち、手に取り、そっとめくっていく。切れ端はすぐに見つかった。が、それは私が挟んだものとは違っていた。
 素敵な河童ですね!
 そこにはそう一言、丸っこい字でそう書かれているだけだった。しかしその一言に妙に心惹かれ、気恥ずかしさも忘れ返事を書いていた。
**
 あんな落書きにありがとうございます。あれは芥川龍之介の描く河童をイメージして書きました。
**
 授業に使うキャンパスノートを破り取り、切れ端が挟まっていたのと同じページに挟む。返事は来るだろうか。
 数日後、ろくに頭に入らなかった授業が終わると、私は速攻で図書館に向かった。書棚の本をはやる気持ちを抑えながら引き出し、挟んでおいた辺りを開く。すると、私が挟んだ紙とは違う紙が挟まっていた。返事が来たのだ。
 お返事ありがとうございます。まさか、返ってくるとは思わなかったのでビックリしました。昔、どこかで似たような絵を見たことがあったので気になっていたのですが、芥川龍之介だったのですね。もしご迷惑でなければ、あなたが面白いと思う芥川龍之介の話を教えていただけませんか?
 私は、細かな花柄の入った便箋から顔を上げると、鞄から用意しておいた便箋を取り出し、近くの机に向かいペンを走らせた。
**
 こちらこそぜひお願いします。周りに芥川の話をする相手がおらず、寂しく感じていたので話ができてとても嬉しく思っています。
 まずは、あまり有名ではありませんが、個人的にはとても好きな「報恩記」をおすすめします。盗人の甚内、貿易商の弥三右衛門、弥三右衛門のドラ息子の弥三郎の三人の視点で話が進みます。盗人の甚内が、家業の傾きかけた弥三右衛門に昔、命を助けてもらった恩返しに、金を工面するのですが今度はその恩返しに甚内の代わりに弥三郎が晒し首になるのです。では、ご感想お待ちしております。
**
 一気に書き上げ、便箋を本に挟んで元の場所に戻す。どんな反応が返って来るだろうか。数日後、一時限目の授業中、私は学校が始まる前に図書館に寄って取ってきた返事を、授業が終わるのも待ちきれずに読んでいた。
 厚かましいお願いを聞いてくださるとは思わなかったので、またまたビックリしています。「報恩記」、とても面白く読みました。
 弥三右衛門の想像上の弥三郎が「どうか不孝の罪は堪忍して下さい。わたしは極道に生れましたが、一家の大恩だけは返しました。それがせめての心やりです」と語っていて、実際の弥三郎も最後に「どうか不孝は堪忍して下さい、わたしは極道に生まれましたが、とにかく一家の恩だけは返す事が出来たのですから」と同じようなことを語るのを読んで、弥三郎は、弥三右衛門が思っているような改心した息子ではなかったかもしれないけれど、二人の根幹には「家族」があったのだろうなと思いました。根幹が同じなのに父は息子のことを理解できていなくて、息子も改心しないまま恨みを返すために恩返しをするというねじれた行動をとってしまったのは切なく感じました。でも、善人は善性だけではなく悪人も悪性だけの存在として書かれていないのは、そうだよな、人間はそんなに単純なものではないよなあと気づかされて、ハッとしました。もっといろいろ思ったことはあるのですけれど、今回はこの位で。また、面白いものがあったら教えてくだされば喜びます。
「新原(にいばら)さん」
 どう返事を書こうか、考えながら大学の廊下を歩いていると、教授に呼び止められた。
「この前の課題、どうしたの? まだ出していないみたいだけど」
「あ……。今回は、その、見送りってことで。不可にしていただいて結構ですんで」
 私がそう言うと、教授はため息を吐いた。
「そう。……最近、元気がないんじゃない? 前期では真面目にやっていたのに、最近授業も欠席しがちだし」
 元気がない。というよりはやる気が出ないのだ。けれどもそれを言っても仕方がないので、曖昧に相槌を打ってその場からそそくさと立ち去った。
**
 お早いお返事ありがとうございます。私も待ちきれずに五日くらいでお返事が来ているかどうか見に来てしまって、あなたもやり取りを楽しみにしているのだと思って嬉しくなりました。
 弥三右衛門が思うように、弥三郎は純粋な思いで身代わりにはなっていないことや、弥三郎が「甚内は広い日本国中、どこでも大威張に歩ける」ようになり甚内に恩を売れると思ってなった身代わりですら、甚内は結局人目を忍んで生きているので、弥三郎の目論見通りに恩返しができているとは言い難いことなどから、あの三人の間で何か上手くいったものや通じあったものは何もなくて、すれ違っているばかりだと思い込んでいたので、あなたに「二人の根幹には「家族」があった」と言われて、改めて気づかされた気がします。
 前回、お送りした手紙では、「とても好きな」と書きましたが、正確には、好きというのとは少し違うかもしれません。自分の行動の意図が他者にどう伝わるかはわからないということが、私の心に引っかかっているのでしょう。
 次に、読んでいただきたいものは「南京の基督」です。ではまた。
**
「――金花は髯だらけな客の口に、彼女の口を任せながら、唯燃えるやうな恋愛の歓喜が、始めて知つた恋愛の歓喜が、激しく彼女の胸もとへ、突き上げて来るのを知るばかりであつた。……」
 声に出して読むと頭に入りやすい、意味を解しているかはともかくとして。晩御飯の後、「南京の基督」を読み返していると、母に話しかけられた。
「文子(ふみこ)。おじいちゃんの本どうしたの? 本棚なんか空いている気がするんだけど」
「あれなら、一昨年人にあげたけど」
「ええ⁉ 一昨年って、おじいちゃんが死んですぐじゃない」
「私が貰ったもの、私の好きにして何がいけないの?」
「でも、おじいちゃんが大事にしてたものなのに……」
 母は、そこまで言って口をつぐみ、かぶりを振った。
「……いまさら言ってもしょうがないか。それに、文子はそういう子だものね」
 こんにちは。お元気でしょうか? 私は元気です。「南京の基督」読みました。梅毒が本当に治ったのかどうかはわからないけれど、金花はきっと幸せなのだろうなと思いました。もし根治した訳ではなくて、一時的に病状が収まっただけでまた体調が悪化してしまっても、金花は基督様に治してもらったと思い込んでいるのだから、また新しく別の病気にかかってしまったと思うだけなのだろうと思います。もし本当は梅毒で死ぬのだとしても、別の病気だと思い込んでいる金花は、梅毒を治してくれた優しい基督様の御許に行くだけだと思って幸福に死ねるのではないでしょうか。
 嘘でも、望みを持ったまま死ぬのであれば、あまり不幸ではないと思います。
 前回いただいたお手紙のことですが、「自分の行動の意図が他者にどう伝わるかはわからない」。これは、受け取る側も同じだと思います。
 行為者がどういったつもりでその行為を起こしたのかは、受け取る側には想像するしかありません。私にも、あの人はどういったつもりであんなことをしたのだろうと今になって考えることがあります。
 それではまた、お返事楽しみにしています。最近寒くなってきたので、お風邪などひかれませんように。
「――芥川龍之介は、二二歳の時、幼馴染の女性との結婚を決意しますが、家族の、特に伯母ふきの強い反対に遭い破局します。その後、二十三歳の十一月『帝国文学』に発表された「羅生門」ですが、そこに出てくる老婆はふきを投影しているのだとする説があり――」
 午後の静かな教室に、教授の声のみが響く。昼食後の靄(もや)のかかった頭でぼうっと聞いていると後ろから肩をつつかれた。
「ねえ」
 振り返ると、後ろの席に座っていた男子学生がやけに緊張した面持ちで口を開いた。
「……あっ、あのさ、消しゴム、貸してくんない?」
「そのシャーペン、消しゴム付いてるように見えるけど」
 彼が右手に持っているシャーペンを見て、私がそう言うと、
「あ、……うん。気づかんかった。付いてた。うん……」
 彼は、ますます強張った顔で無理矢理、笑顔を形作って見せた。彼は一体、何に動揺しているのだろうか。
**
 お元気でしょうか。私も元気です。
 金花の梅毒が本当に治ったのかどうかですが、芥川は、南部修太朗の批評への返答にて次のように述べています。

金花の梅毒が治る事は今日の科学では可能だ唯根治ではない外面的徴候は第一期から第二期へ第二期から第三期へ進む間に消滅するつまり間歇的に平人同様となるのだいくら君が治るものかと頑張つても治るのだから仕方がない

 つまり、芥川は書簡の中で、金花の梅毒は一時的に外面的徴候がなくなっただけだと明言しているのです。
 「南京の基督」は、ほとんどの論文が、この書簡を根拠に、金花の梅毒は根治していないことを前提に論を展開しています。
 しかし、そうではない論文もいくつかあります。作者の意図と作品は切りはなして考えるべきなのだから、作者の意図が語られていようとも作品の真実を示している訳ではないと主張する人もいるからです。だけど、作者の意図が正解でないのならば、作品論における正解とは何なのでしょうか。
 少し話が逸れてしまいましたね。金花は幸福なのだと言うあなたの意見、私にはない発想でとても面白かったです。私は、金花はとても優しい人物だと思っているので、George Murryが梅毒にかかってしまったことを旅行家から告げられてしまった場合、外国人とGeorgeが同一人物だという確証がないとしても、金花は気に病んでしまって、梅毒が治癒したかどうか以前に不幸になってしまうのではないかと思っています。
 ちなみに、「南京の基督」の映画版は、主人公が旅行家になり、金花に治療をするように説得するそうです(それでも死んでしまうのですが……)。
 あまり長くなっても疲れてしまうので今回はこの位で、最近可愛いコートを買いました。あなたも、寒さに負けない服装をしてください。
**
「うーん……」
 私は、自室で手紙を書き終えた後、今まで彼女からもらった手紙を眺めていた。
「やっぱ、何か既視感があるような……」
 便箋のラインに沿って並べられた丸みを帯びた文字に、見覚えがあるような気がするのだ。だが、どこで見たのかが思い出せない。
 そういえば、いつも手紙を挟んでいる本、あれもなんとなく懐かしい感じがする。何故なのだろうか。
 お元気でしょうか。でもこんな短いスパンでやり取りしていることそのものが元気な証ですね。
 映画版の金花は、病気を受け止め、治療に進むことができたのですね。それは、一緒に受け止めてくれる人がいたから、覚悟ができたのかもしれないけれど、真実を知って幸福になるか不幸になるかは、受け止める側に覚悟があるかどうかにもよるのかもしれません。
 私は高校生の時、変な癖があったせいか二年になるまでいじめられていました。二年生に上がって、いじめはなくなったけれど、クラスには一年の時の雰囲気が残っていて、なんとなく遠巻きにされて相変わらず友達ができないでいました。
 だけど、ある日同じクラスの女の子が話しかけてくれたんです。とてもきれいな子で、頭も良くて、亡くなったばかりのおじいさんの本をくれたりして、ちょっと変わっている人だとは思ったけど、私には優しくていつも一緒にいました。
 だから、私をいじめていた彼と、あの子が手を繋いで一緒に歩いている所を見たときは本当にショックでした。彼が私をいじめていたことは、あの子も知っているはずなのに。裏切られた。と思いました。だから、私はただ距離を置きました。最初は彼女も変わらずに接してきたけど、だんだん察したのか向こうも話しかけてこなくなって、結局そのまま卒業してしまいました。
 だけど、最近思うのです。私は彼女の口から直接、彼女がどういうつもりだったのかを聞いていなかったことを。私は、彼女が私と仲良くしている振りをして、裏では彼とあざ笑っていたのかと思って、許せずにいたけれど、真実はどうなのか、それが残酷なのか、それとも本当は何か訳があったのか。私はそれすらも知らないのだと。
 今までは、きっと嫌な真実しかないだろうと決めつけて、知りたいと思わなかったけれど、それは、ただ単に覚悟がなかっただけなのかもしれません。
 私はそこまで読んで、顔を上げた。急激に上がった心拍数に目の前がクラクラする。
 バタッ!
 手から本が滑り落ちた。拾おうとしてかがみこむと、奥付が眼に入った。余白には、私の祖父の蔵書印が押されていた。
「私は……」
 つぶやきが、口から漏れた。どうすれば、良いのだろう。

 ――二年前――
 高校二年生になって、二か月がたった。
 昼休み、暇を持て余した私は、普段あまり利用されない校舎の端っこのトイレで時間を潰していた。自分以外誰もいない空間は落ち着く。ここが、私の居場所なのだと思える。
 私は、教室の人間関係に居場所を見つけられないでいた。皆、最初は話しかけてきてくれるのに、しばらくたったらどこかに行ってしまう。最初に入ったグループでは、会話していた相手が突然泣き出してしまったことがあり、いられなくなった。どうもダイエットの話題になった時に、それより歯並びをどうにかした方が良いと言ったことが原因のようだ。
 予想ができないのだ。自分の行為を相手がどう受け取るかを考えることができない。いつもそれで嫌われてきた。
 でも、最近はもう話があわない人とあわせるのも面倒くさくなってきたので、一人でも別にいいかと思うようになってきた。ドラマも漫画も小説も、人間関係が描かれたものは、理解できないから見ない。見ないから誰とも話があわない。あわせるのに、疲れていた。
 キーンコーンカーンコーン
 授業開始一五分前の予鈴が鳴った。仕方がない、そろそろ教室に戻ろう。
「――この東京が森や林にでもなったら、御遇いになれぬ事もありますまい」
 トイレを出たところで、かすかに声が聞こえてきた。どうやら、すぐそばにある外の非常階段から声は聞こえてきているようだ。
 そっと非常階段に通じるドアを開くと、声はますます明瞭になり、階段の上の方から降ってきた。
「――『猫かい?』
『いえ、犬でございますよ。』」
 階段の上の方を見上げると、同じクラスの柳川(やながわ)さんが階段に腰掛け本を朗読していた。
「――両袖を胸に合せたお蓮は、じっとその犬を覗きこんだ」
 授業での音読とは違う、情感たっぷりに込めた読みかた。本当に登場人物になりきって語っているみたいだ。しばらく聞いていると、さっき私が入ってきたドアが開き、男子生徒が入って来た。
「あ、新原さんじゃん」
「あ、えーと……」
 いつも授業中やかましくしている同じクラスの男子だと思うのだが、名前が出てこない。
「こんなとこで一人で何してんの」
 記憶を探っていると、何がおかしいのか彼は薄ら笑いを浮かべながらそう聞いてきた。
「え?」
 一人? 不思議に思い、先ほどまで柳川さんがいた場所を見ると、そこには誰もいなかった。階段を駆け上がり、踊り場を曲がると、彼女が上の階のドアから中に駆け込んで行くのが見えた。さっきの男子が呼ぶ声が聞こえてきたが、無視して後を追い、ドアを勢いよく開けると――
「うわぁっ!」
 柳川さんがドアの真正面の床に倒れ込んでいた。どうやら、ドアの裏側に張り付いていたようだ。
「だ、大丈夫? ごめんね」
「あ、新原さん……」
 手を差し出すと彼女は、ありがとうと言いながら、こちらの手を掴んだ。グイっと引き寄せ立ち上がらせる。ぱっと見、どこも怪我はしていないようだった。
「何でドアの裏に?」
 私がそう聞くと、彼女は視線をさまよわせた後、小声で言った。
「わ、私、あの人に一年の時いじめられてて、こっち来たらやだなって……」
「ああ、そっか……」
 ここに逃げてきて、ドアに張り付き様子を窺おうとしたのだろう。ふと床を見ると、彼女が階段で読んでいた本が落ちていたので拾って彼女に渡す。
「あ、ありがとう」
「何読んでるの」
「あ、芥川龍之介の「奇怪な再会」」
「ふーん。芥川好きなの?」
「最近読み始めたばっかりだから、まだわかんない」
「そう。いつもあそこで読んでるの?」
「え、あ、新原さん。私が階段で本読んでるの……」
 さっきの男子に意識が向いていて、私の方には気づかなかったようだ。頷くと、彼女はうめき声を漏らしながら、顔を両手で覆った。
「あぁー……恥ずかしい。その、私、癖で、いつも声に出して読んじゃうの。だから、教室とか図書室とかで本読めなくて、いつもあそこで読んでるんだ」
「私も一緒にいていい?」
「え?」
「柳川さんが本読んでるの、傍で聞いてたいから」
 柳川さんは、いつも一人でいて、私と同じでクラスに居場所がないようだった。けれど、本を読んでいる時の彼女は、すごく楽しそうで、本の世界に没頭していて、まるでそこに居場所があるみたいだった。
 小説に興味なんかないけれど、彼女のいる世界に興味があった。
 彼女はややあって戸惑ったように、しかしどこか嬉しそうに頷いた。
 そうだ、今度私のおじいちゃんの本を持ってきてあげよう。私は読まないから別にいらないし、きっと喜んでくれるだろう。
 そう考えると、私はとても楽しい気分になった。

 三週間後、私は久しぶりに図書館に来ていた。最後の返事を出すためだ。このまま終わらせようか、とも思ったが、それはあまりにも誠実さを欠いていると思った。二度も傷つけたくはなかった。シンプルな便箋を本に挟み、他の書棚を見ることもせず、図書館を出る。もう二度と近づくこともないだろう。
 家の方面に向かうバス停に行くと、ちょうどバスが停まっていた。
 乗り込もうとステップに足を掛けようとした瞬間、後ろから手を引かれた。驚いて振り返ると、エプロン姿の若い女性がいた。
「……柳川さん。何で、ここに……」
「……全部は、読んでない。でも、最後の方が、目に入ったから」
そう言って彼女は、先程本に挟んだばかりの便箋を私の目の前に突き付けた。
**
 柳川澄映(やながわすみえ)様へ
 お手紙をいただき本当に驚きました。まさか、いままでお手紙をやり取りしていた相手が柳川さんだったなんて。
 私は知らない間に柳川さんを傷つけていたのですね。そんなこともわからずに、私はあの時、柳川さんが急に私と距離を置くようになったと思って嘆いていました。昨日まで一緒に笑いあっていたのに、突然目もあわせてくれなくなって、悲しかったし、訳がわからなくて辛かった。でもそれは、全て私が原因だったんですね。
 私は昔から、人が何を考えているのかを慮るのが苦手でした。だから、私が柳川さんをいじめていたあの人と付きあうことがあなたを不快にさせるということがわからなかった。別にあの人のことがそれほど好きだった訳でもなく、告白されたから付きあっただけで、結局相手が何を考えているのかわからなくてすぐ別れてしまったというのに。
 私は、人の考えがわからないことで一人になってしまった。だから、文学部に進みました。
 作品には、その人自身が出るとよく言いますよね。作者の経験や、思想などのそういうものが作者が意図せずとも現れる。ある意味、作者そのものだとも言えるのではないでしょうか。だから、作品がわかれば、その人が理解できるのではないかと思って文学部に進学しました。誰か一人だけでも、人のことを心の底から全て理解できるようになれれば、人が何を考えているのかわからなくて怖くなることもなくなるのではないかと思っていました。
 けれど、それはとても難しいことでした。一つの作品を解釈しようとして、論文を読んでもその論者ごとに主張は違っていて、そのどれもにそれぞれ根拠があって、けれどどれだけ説得力があってもそれは一つの説でしかなく、これが正しいと言い切れるものではないのです。
 文学論に正解がないのであれば、作者の気持ちなどわかりようがないと思って、私は最近やる気が失せてきていました。だけど、あなたとのやり取りで、本を解釈することの楽しさを思い出しました。あなたと私の意見は違うけれど、それが面白いと思えるようになった。
 それに、他人が何を考えているかなんて、正確なところはわかりようはないのだろうけれど、わかりたいと思って考えること、それ自体が大事なのかもしれません。昔の私は、他人が何を考えていようとどうでもよかった。それを、考えるようになっただけでも、私はきっと成長したのでしょう。
 でも、やっぱり、現実問題として、私はこれからも無自覚で人を傷つけてしまうことでしょう。だから、ここでお別れしましょう。今までありがとう。そして、ごめんなさい。
 新原文子(にいばらふみこ)より
**
「私は、新原さんに謝ってほしくて手紙を出したんじゃない」
 柳川さんは手紙を見せつけながら、私を睨みつけるようにそう言った。バスはもう、行ってしまった。
「手紙を出した……?」
彼女は少しためらった後、口を開いた。
「……私、あの図書館で働いてるの。あの日、新原さんが、書庫に入っていくのをたまたまみかけて、でも直接声を掛ける勇気がでなくて、なんとなく新原さんが読んでいた本を見てみたら、よく新原さんが書いていた河童の絵が挟まれているのを見つけたの。新原さんなら食いついてくるはずだと思って、あの手紙を残したの」
「何で、そんなこと……」
「新原さんのことが知りたかったから。私、あれから新原さんのことを忘れようと思って、くれた本も手放そうと思って、最初は返そうとしたんだけど、連絡先知らなかったから、あの本図書館に寄贈したりもした。だけど、やっぱりずっと心に引っかかっていて、私に優しくしてくれた新原さんと、私をいじめていたあの人と付きあっていた新原さんが頭の中で結びつかなくて、本当はいい人なのか悪い人なのか、どっちだったんだろうって、あの時新原さんはどういうつもりだったんだろうって、考えるようになった。だから、知らない人のふりをして本の話をしたら、また一から新原さんのことがわかるかと思って」
「そうなの……。でも、私の本質はあのころから変わっていないよ。きっとまた私は無神経なことをして柳川さんを傷つけると思う」
 これはもう生まれ持った性格なので、どうすることもできない。私が震える声で言うと、彼女は濡れた瞳でこちらを見つめて言った。
「あの時、私は初めてできた友達に舞い上がって、自分に都合のいい、新原さんの良い所しか見えなかった。認められなかった。だから、新原さんがあの人と付きあっていたことが、受け入れられなかった。でも、優しい所も無神経な所も    全部含めて新原さんなんだよね。新原さんが空気を読める人だったら、きっと私が遠ざけられている雰囲気を感じ取って、話しかけてくれることもなかったと思う」
 柳川さんは私の前に手を差し伸べた。
「私はまたあなたと友達をやりなおしたい。今度は良い所も悪い所もひっくるめて、あなたを受け入れる覚悟をしたい。良い所だけを見ようとする関係なんて、すれ違い続けるだけだって、あなたとのやり取りでわかったから」
「私との……?」
「弥三右衛門は弥三郎に理想を見て、真実を見失った。弥三右衛門はもしかしたら、夢をもったままでいられて、幸せかもしれない。終わってしまったことを救うには、自分の中で美化するしかないもの。でも、私たちは、終わっていない。これからいくらでもやり直せる。新しい話を紡げる。……あなたも、そうしたければの話だけど」
 目の前が涙で歪んだ。無意識に誰かを傷つけてしまって、いつも気がつけば一人だった。誰にも受け入れてもらえることはないと思っていた。柳川さんの手を取る、その手は高校時代と変わらずやわらかく、しかし力強く私の手を握り返してきたのだった。
「もう、会えないかと思ってた」
「東京が森になる前に、会えてよかった?」
 彼女はそう言って、いたずらっぽく微笑んだ。
「うん。……ふふふ」
 自然と笑い声がこぼれた。私たちはこの奇怪な再会を、二人で静かに喜びあった。



※作品の無断転載を禁じます。

一覧にもどる