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日本語日本文学科

2020.12.01

臨書を通して|家入博徳|日文エッセイ206

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日本語日本文学科

日文エッセイ

 【著者紹介】
家入 博徳(いえいり ひろのり)
書道担当
書道史・文字表記史を研究しています。


 臨書とは一般的に「書道で、手本を見て字を書くこと。また、その書いた書。」(注1)と解釈される。過去の優れた書作品を手本に書く。その過程で、技術の習得はもちろんのこと、時に思いもよらない気づきを得ることもある。

 書を学ぶ際、高等学校や大学においても臨書をする機会は多い。『高等学校学習指導要領解説 芸術編』(平成30年7月告示)において臨書は以下のように記されている(注2)。

「臨書」とは、書の古典と向き合い学習することであり、臨書という言葉は創作に対応させて用いられることが多い。広い意味では近現代の筆跡を学習することも臨書ということになるが、一般的には主として評価の定まった古典を学習することをいう。(中略)臨書を通して、用筆・運筆の技能を身に付け、さらに、字形の特徴、全体の構成を生かして表現を工夫することができるようになる。

書の古典、つまり過去の優れた書作品の学びを通して、さまざまな技術を習得することはもちろんのこと、自己の表現を昇華させることができる。なお、このような臨書の学びは高等学校や大学在学中だけではない。今日、臨書の手本となるような作品を書いた人物でさえ、技術の研鑽や自己の表現の参考にするために臨書を継続的に行っているのである。また、臨書は技術の習得や表現力の向上のためだけにするのではない。鑑賞をする際、鑑賞対象を臨書することで鑑賞が深まる。鑑賞しただけでは分からなかったことが臨書によって実感され、字形や構成についての理解につなげられる。臨書を通して、より意識的に鑑賞することができるようになると考えられる。さらに、臨書は学習の手段としてだけではなく、作品として展覧会で発表することを目的にすることも多い。

 臨書をする際、手本となる作品をよく鑑賞(観察)したり、繰り返し臨書したりすることがある。そんな時、「あれっ」と手本となる作品に対し違和感が生じることがある。
 以前こんなことがあった。仮名の古典作品の中に、伝西行筆『山家心中集』というものがある。西行自身の書写ではなく、院政期に歌人藤原俊成の監督のもとに書写された書写本である。現在出版されている『日本名筆選』にて複製されているので、仮名を学んだ人なら臨書したことがあるかもしれないくらい著名な作品である。その、伝西行筆『山家心中集』は従来三人の書写者によって本文が分担書写され、さらにその書写本制作の監督的立場であった藤原俊成がいくつかの箇所に書き入れをした作品とされてきた。しかし、よく鑑賞(観察)すると、両隣の行とは少し違って見える箇所がある(注3)。とても少ない分量なので見逃しやすいのであるが、書風からもう一人の筆跡が存在していることが分かったのである。著名な作品であり、研究が相当行われていると思われる作品でも、時にこのような気づきを得るのである。

 私たちは臨書から多くのことを学ぶことができる。技術が習得できることはもちろん、自己の表現を確立するヒントを与えてくれる。
 そして、時にはじっくりと鑑賞したり、気になる箇所を繰り返し臨書したりしてみてはどうだろうか。そこから、思いもよらない気づきが得られるかもしれない。
注1 『日本国語大辞典』第二版 小学館 平成十四年
注2 引用は「漢字の書」からであるが、「仮名の書」においても臨書の考えは基本的に同様のもの考えられる。
注3 『日本名筆選』44(二玄社 平成十六年)p15、p29、p59



家入博徳講師(教員紹介)
日本語日本文学科(学科紹介)
日本語日本文学科(ブログ)

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