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日本語日本文学科

2020.11.01

長崎のキリシタン語彙と私たち|星野佳之|日文エッセイ205

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日本語日本文学科

日文エッセイ

星野 佳之 (日本語学担当)
古代語・現代語の意味・文法的分野を研究しています。
 

 8月に、長崎に行って来ました。行く先々で感染症対策がとられていて、お盆期間を避けたこともあって、どこも静かに見て回ることができました。8月の長崎を訪れるにはふさわしかったかもしれません。平和公園では殊にそう思われました。
 原爆資料館のあと、浦上天主堂、大浦天主堂も見て回りましたが、他にも行きたいところは色々ありながら、今回は外海(そとめ)地区に的を絞ることにしました。
 外海は潜伏キリシタンが住んだ所の一つで、遠藤周作文学館があります。ここに学芸員として勤める本学卒業生の川﨑友理子さんが、遠藤の未発表の完成原稿を最近発見して話題になりました。現在(2021年6月30日まで)、その草稿2枚と清書原稿が展示されているので、早い内に訪れたいと思ったのでした。久しぶりに会う川﨑さんは相変わらず元気で、展示を一通り説明してくれました。私は遠藤文学にあまり親しんでこなかったのですが、おかげで作家の思索の後を辿ったような気持になれました。

【画像】外海にある旧出津救助院の瓦

【画像】外海にある旧出津救助院の瓦

 もう一人、県立広島大学で方言学を担当する小川俊輔さんという若い友人にも会ってきました。今年の4月から半年間、研究休暇で長崎にいるということで、今回の外海に同行してくれました。小川さんは現在に伝わる「キリシタン語彙」を精力的に研究しています。これ以上の道連れはありません。
 小川さんの数多くの調査の中で今回特に思い起こされたのは、「キリスト教の信者をどう呼ぶか」という調査です(「九州地域方言におけるキリシタン語彙Christãoの受容史についての地理言語学的研究」)。「クリスチャン」という言い方の他にも、「キリシタン」に始まり、「アーメン」「ゲドー」といった様々な言い方が、特に長崎県域に分布しているというものです。そしてこの論文は、これらの言葉が蔑称語の意識で用いられたものであることも、明らかにするのです。「子どもの頃、喧嘩の時には『コノキリシタンガ!』と言っていた。」「昔は『キリスタン』と言った。また、不潔な人、道理にはずれた人をさして『キリスタン』と言っていた。」小川論文が収めたこうした貴重な証言は、この語がもはや、信仰と無関係に用いられる罵倒語になり果てたことを示しています。
 この調査結果は、歴史学の側の論考と地続きにつながります。大橋幸泰『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』(講談社選書メチエ)は江戸時代の資料を博捜して、「『切支丹』の語は、十八世紀以降そのイメージの貧困化にともない、怪しげなものを批判する呼称として使用されていった。」と述べます。まさにこの「貧困化」の果てにあるのが、小川論文に記録された罵倒の用法なわけです。
 上に引用した証言に「子どもの頃」「昔は」とあるように、こうした差別的意識は全般において、過去のものとなりました。キリスト教徒一般を指す語としては、蔑称の意味合いを特に持たない「クリスチャン」が当地でも優勢になり、「キリシタン」の方は使用が避けられるようになったことが、小川さんの調査で明らかになっています。語が一度差別意識にまみれてしまうと、それを拭うのは容易ではないということでしょう。
 
 しかしそれを果たした語彙もあることを、小川さんは別の論文で指摘します。長崎の菓子や焼酎には、「クルス」「伴天連」と命名された商品があります。これらのキリシタン語彙は、地域の特色を強調できるような、積極的な用いられ方をするに至ったというわけです(「日本社会の変容とキリスト教用語」)。差別的語彙が改めてポジティブなイメージを獲得した例は、アメリカの「ブラック・イズ・ビューティフル」運動や「クィア」など、黒人・同性愛者への蔑称であったのを敢えて自称に用いたもの以外、あまり耳にしません。その点でも特筆してよい言語現象でしょう。
 外海では、出津教会堂、大野教会堂、黒崎教会堂、そしてド・ロ神父が設立した授産施設である旧出津救助院などに目を奪われました。近世の苛烈な宗教弾圧から解放され、開国の後に渡来した外国人神父らの助けを得て、人々が生活の質を向上させて行った時代のこれらの建物は、立派な中にも慎ましさを湛えて美しく、私にはキリシタン語彙の“復権”を象徴するかのように見えました。

【画像】大野教会堂

【画像】大野教会堂

 同時に、小川さんのこの調査が2003年から2005年に行われたものであるということを、どうしても意識せざるを得ません。日本に潜入した最後の宣教師・シドッチが死亡したのは、1715年です。これから1865年のプチジャン神父の「信徒発見」までは150年。この間、日本では誰も宣教師など見たことはなく、潜伏キリシタンたちも息を潜めて暮らしていたのに、社会は禁教政策に後押しされて「キリシタンめ」と何かを罵り続け、その残滓が平成の半ばまで人々の生活に記憶されていたわけです。
 今後再びキリシタン語彙が蔑称に貶められることはないかもしれません。しかし私たちはもう、こうした言葉と無縁でしょうか。ルーツの異なる隣人に対して、或いは大勢に異を唱える人に向けて、また、こんな時期に迂闊な行動をしたと思う人を見つけて、見えない何かを恐れるように言葉が投げつけられる光景は、私たちの社会で今むしろ目立つようになりました。全ての学問がそうですが、潜伏キリシタンがどう生き、何を遺したかを理解しようとする研究は、決して解決済みのことを扱うのではありません。
 

【画像】『耶蘇宗門朝渡根本記』(写本、本学附属図書館特殊文庫蔵本)。江戸時代にキリシタン(耶蘇教)批判のために編まれた「排耶書」の一つ。内容は、謀叛に失敗した南蛮国の大王が信長公の時に来日して以後邪教を広めようとする、といったもの。

【画像】『耶蘇宗門朝渡根本記』(写本、本学附属図書館特殊文庫蔵本)。江戸時代にキリシタン(耶蘇教)批判のために編まれた「排耶書」の一つ。内容は、謀叛に失敗した南蛮国の大王が信長公の時に来日して以後邪教を広めようとする、といったもの。

【画像】『南蛮記』(写本、本学附属図書館特殊文庫蔵本)。これも「排耶書」の一つ。書写者を記した箇所が、刃物によって切り取られています。

【画像】『南蛮記』(写本、本学附属図書館特殊文庫蔵本)。これも「排耶書」の一つ。書写者を記した箇所が、刃物によって切り取られています。

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