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日本語日本文学科

2009.04.01

異文の快楽 ~『狭衣物語』天稚御子降下事件から~|新美 哲彦|日文エッセイ66

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第66回】2009年4月1日

異文の快楽 ~『狭衣物語』天稚御子降下事件から~
著者紹介
新美 哲彦(にいみ あきひこ)
古典文学(平安)担当
平安・鎌倉時代に作成された物語について、江戸時代に至るまでの受容の歴史も含めて研究しています。

はじめに
前回「文学作品の本文」(2008年7月1日)で、「文学作品の本文というと、作者と題名が同じであれば、当然同じ本文であると考えてしまいがちだが、実はそうではない」と書いた。今回は、『狭衣物語』を材料に、諸本によってどのように描写が異なるのか見ていきたい。

『狭衣物語』は平安時代成立の、『源氏物語』と並び称せられていた作り物語である。作り物語には大抵さまざまな諸本があるが、『狭衣物語』は異文の多さで群を抜く。

天稚御子(あめわかみこ)降下事件
『狭衣物語』の冒頭、物語の主人公・狭衣が宮中で笛を吹くと、天上から天稚御子が降りて来て狭衣を天上に誘うが、天皇が引き留める、という事件が描かれる。この事件で天稚御子に誘われる狭衣は、物語の中で最終的に天皇になるが、『狭衣物語』に栄華の物語としてのおもむきはない。というのも、天稚御子とともに天上に行こうとする狭衣を、天皇が涙ながらに引き留める時点で、狭衣は天皇の権威を越えてしまっているからだ(助川幸逸郎「盗まれた手紙・見出された手紙」『文学理論の冒険』東海大学出版会)。

この天稚御子事件は、そのほかにも、「天上の童を、地上の人として成人させる成人儀礼の側面を持ったものだったといえるのではあるまいか」(鈴木泰恵『狭衣物語/批評』翰林書房)、「『狭衣物語』は、いわば翼をもがれたかぐや姫の物語であって、それは『竹取物語』の終息した所から書き始められていると言ってよい」(深沢徹「往還の構図もしくは『狭衣物語』の論理構造(上)」『狭衣物語の視界』新典社)などと、さまざまに論じられる。

異文の実際
そのように重要な場面である天稚御子事件は、諸本によりどのような差異を見せるのか。今回は、活字化されている注釈書である、日本古典文学大系(岩波書店 以下、大系と略称。底本・内閣文庫本)と新潮日本古典集成(新潮社 以下、集成と略称。底本・旧東京教育大学国語国文学研究室蔵本)の違いを見ていく。

狭衣が笛を吹き、天稚御子が天上から降りてくる。そのとき、大系では、狭衣は帝の前に行き「九重の雲の上まで昇りなば天つ空をや形見とはみん」と辞世の歌のようなものを詠み、天稚御子に連れて行かれようとしたところ、「御門・春宮も、「なにしに、かゝる事を」「せさせつらん」とくやしう、手を捉へさせ給へば」と、帝や春宮が、狭衣を行かせまいと手を押さえる。

一方、集成では帝の心情が細かく描かれるものの、狭衣の和歌はなく、春宮も登場しない。狭衣を引き留める描写にも、大系の「手を捉へさせ給へば」のような直接的な身体表現はない。

そして引き留める帝に対して、大系では、「十善の君(帝)の、泣く泣く惜しみ悲しみ給へば、えひたすらに、今宵、率て上らずなりぬるよしを、おもしろくめでたふ、文に作り給ひて」と、天稚御子が、帝が引き留めるので連れて行かないという内容の漢詩を作り朗詠する。狭衣も漢詩を作り朗詠する。

一方、集成では、「帝の袖をひかへて惜しみかなしみたまふ、親たちのかつ見るをだに飽かずうしろめたうおぼしたるを、行方なく聞きなしたまひて、むなしき空を形見とながめたまはむさまのかなしさに、このたびの御供に参るまじきよしを、言ひ知らずかなしくおもしろく文つくりて」と、狭衣が、帝の引き留める様子を見ながら親のことを思い、このたびは天に参ることができない、という内容の漢詩を作って朗詠する。

その狭衣の様子は「天人のならびたまへるにもにほひ愛敬こよなくまさりて」と、天人よりも素晴らしいと描写され、その様子を見た天稚御子は涙を流しながら漢詩を作る。

異文のまとめ
簡単に違いを整理すれば、大系では、狭衣は、天上に行く気満々で、辞世の歌まで詠むものの、天稚御子は、帝が止めるから今回は天上には連れて行かない、と漢詩を詠み、狭衣はこれに答える、というように、狭衣に主体性はない。それに対して集成では、帝の心情が細かく描かれた後、それを見る狭衣の心情が細かく描写され、さらに狭衣が断りの漢詩を詠み、狭衣の天人以上の美しさに涙を流しながら天稚御子が答える、というように、狭衣主体で物語が進んでいく。また、語られ方も、大系が出来事を淡々と語るのに対して、集成は帝や狭衣など登場人物に寄り添い、心内語(心の中の言葉)を多用する。

おわりに
どちらも『狭衣物語』だし、冒頭の一つのクライマックスをなす重要な場面なのに、これだけの違いがある。さきほどの論と絡めて言えば、大系では天皇の引き留めによって天稚御子は天上に狭衣を連れて行くことを諦めるわけで、一応天皇の権威が描かれているのに対して、集成では、狭衣は天人以上の存在として描かれており、天皇の権威などは微塵もない。また、大系では狭衣に決定権がないのに対して、集成では狭衣自身が地上に残ることを決定している。「成人儀礼の側面」からも「翼をもがれたかぐや姫」の観点からも、この違いは大きい。

このような差異に接すると、諸本を見ずに物語を論じる難しさを感じるとともに、文学作品の本文という、文学を研究する上での、自明に見える前提を疑うことの愉しみを感ずるのである。

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