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日本語日本文学科

2009.05.01

他者の言動を受け止める|氏家 洋子|日文エッセイ67

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第67回】2009年5月1日

他者の言動を受け止める
著者紹介
氏家 洋子(うじいえ ようこ)
日本語学・日本語教員養成課程担当
ことばが私たちの精神活動や社会・文化とどう関係し合うかについて考えています。

最近、耳にする「自己開示」とは他者へありのままの自分を示すことされる。が、同時に、それをする自身への開示という面も持つだろう。その行為を通して改めて自己を振り返る。現在への道のりとしての過去を語る。そこでの記憶の無意識の選択には当人の好みや傾向が少なからず反映される。
幼時、縁側近くで一人で遊んでいると何かの気配を感じた。隣家の裏庭に黒い大きな猫が端然と坐り、生垣越しにじいっとこちらを見つめていた。犬や猫が身近になる前の4、5歳の頃のこと、こわかった。数年後に犬を貰い受けて飼うように。その犬とよく走り回ったが、なぜか縁先では頭や鼻筋をなでながら無言で話しかけていた。チロは確かにじっと目で応えてくれた、と思えた。程なくして仔猫を貰って飼うことに。抱き上げて頬をひっかかれながらも満面の笑みをたたえて黒トラ、マリちゃんを抱く姿が当時の写真の常態に。開いた本の上、膝の上にマリちゃんは坐り続ける。穏やかな陽の差す縁先で犬猫に囲まれ、国語の本の章末課題、言葉の意味を考え、書くことが7、8歳頃の楽しみだった。心の静けさが好きであり、それを求めた。

高校生の頃、意識したのは自分は何も知らない、できないということだった。大学時代はその知らないこと、わからないことが苦しかった。「なぜ?」「どうして?」という問いが次々と頭をもたげ、自問自答の繰り返し。高校時代の「何のために人は生きるのか」という問いに発するノイローゼ状態の続行。自らの中に浮かぶ問いだから何とか答は得られた、と感じることもできる。確信はなかったはず...か。結果として、学ぶ人生を選び取ることになった、と推定される。今や学び得ていないことばかりだが、それでも、考えていることができれば充足感が得られる。それは心静かな中でしか、持続も深まりもみることはない。

無意識ながら、同じような性向や価値観をもつ人やその集団を結果的に選び取る形で歩いてきた、つもりだった。同業者にはこの手の人間、あるいは、それを感受し得る人間の比率が高いのではないか。同質性の高い集団では価値観が固定化する。例えばそこに「時代から切り離され自閉していく仕組みがビルトインされている」(耳塚寛明「まなび再考」『日経新聞』2009年2月23日)ことへの自戒の念は早い時期に非同業者からの指摘も受け、意識してきた。しかし、どうも、このような職能集団とは観念的なものであり、生身の人間の集団内で現実には人は生きているということを知るに至る。同業者集団も他のどんな集団とも違わず、様々な異なる価値観や性向をもつ人間の集まりだ。

日常の言動から他者を類似した性向、論理、価値観を持つと推測しても、何か事が起きてその推測が表面的だったことに気づく。前提や理解の枠組みが違うという、薄々どこかで気付いていたことが明確に意識される。最近、身近な人の言動から、「アッ、この人はこのように事態を捉えていたのか」と思うことがあった。その言から察するに、当人は周囲の人の言動に不快な思いをし、それをずっと耐え、抱えていたようであった。その言を受け、まずその認識は客観的な事態の把握に基づいてのことだったのかという点が気になった。認識形成がそこに発する情報に客観性が得られない状況にあったのはなぜか、その内容を周囲との間で是正し合う機会もなくそこまで進んでしまったのはなぜかと嘆かわしい気分だった。

松本元は『愛は脳を活性化する』(岩波書店1996)で、人は人と関係を持とうとする「関係欲求」をもつ生き物であり、それなしに生きることはできないと言う。その関係づけのために人は知識や論理を身につけようとするとした点がフロイトとピアジェの共通点だとH. ファース『欲望としての知識』(誠信書房2003拙訳)は指摘する。

コミュニケーションはこうした事情で存在し、言葉も生まれた。が、伝達行動において相手の受け止める刺激は多種、存在し、言葉はそのほんの一部にすぎない。受け止める枠組みも様々で、しかも、これが言語化されていない。上述のように事が起きて自他の違いが発覚する。枠組みは結論的には当人の性向やそれまでの人生の道のりを大きな形成要因とするはずだ。となると、やり取りを繰り返し、修正し合うことは必須となる。互いの言動を受け止め合う、人としてのコミュニケーションを望むなら、自他を尊重する姿勢がなければその行為は意味をなさず、表面上のもので終わる。究極的には自己開示に至るまでの表現を交わし合う。それが必要なのでは?言語行動を通して人間を知る作業に終わりはない...のか。

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