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日本語日本文学科

2009.07.01

国語科教師に求められる「評価力」|大滝 一登|日文エッセイ69

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第69回】2009年7月1日

国語科教師に求められる「評価力」
著者紹介
大滝 一登(おおたき かずのり)
国語科教育担当
国語科カリキュラムや学習評価を中心に、国語科教育について理論と実践を通して研究しています。

この4月に本学日本語日本文学科の国語科教育担当として着任した。10年余りの高校教員生活の後の数年間は,現職教員対象の指導・研修行政に携わっていたため,久し振りの教育現場となる。中学校や高校の国語科教員を目指している学生たちを相手に,教科指導のあり方について話し合う毎日である。

当然のことだが,教科指導の力量は一朝一夕に身に付くものではない。実際に教壇に立っても,周囲に一目置かれるような授業ができるようになるまでには相当の修練を必要とする。どんなに高度な指導であっても,常に変化し続ける子どもたちや,不易と流行の両面を併せ持つ教育内容にきちんと応じた指導でなければ,すぐさま生命力を失ってしまう。教壇に立つ者はだれもが日々この難しさ,奥深さを実感している。

しかし,こうした指導の難しさは実際に教師の立場に立たなければ案外イメージしにくいものらしい。学生たちも,実際に学習指導案を作ってみてようやく教師の努力と仕事の奥深さに気づく。生徒として授業に自然に接してきたせいか,自分にも簡単にできそうな印象を抱くのかもしれない。

本学科の4年生は,教育実習に出る前に模擬授業に取り組むことになっている。各自が教材を選択して50分の授業に向けた学習指導案を作成し,講義室の教壇に立つ。いわば実習の予行演習である。芥川龍之介の「羅生門」,「徒然草」や「伊勢物語」,李白の漢詩など様々な国語教材が並ぶ。学生たちは,かつてのような講義調の授業ではなく,生徒同士の話し合いなど活動型の工夫された授業を意欲的に計画していく。生徒役は同じ立場の学生たちだ。

直前まで熱心に学習指導案を練り上げ,授業が行われるのだが,学生たちの授業はやはり苦戦の連続である。優れた授業に必要な「充実感」「達成感」「楽しさ」「気づき」「緊張感」などがどうも物足りない。
実際に指導しながら,学生たちは自らが今持ち得ない,教師としての「経験」の重要性を改めて感じるのである。

ところで私は,国語科教師の最も重要な力量の一つは「評価力」にあると考えている。
「評価」といえばすぐに結果としてのテストや成績が連想され,現行学習指導要領の下で「目標に準拠した評価(いわゆる絶対評価)」が提言されるまで,教科指導の中であまり本格的に取り上げられてこなかったきらいがある。それは,授業中の生徒の学びに対する「見取り」を十分吟味して指導の改善につなげることができず,結果として「評価」という用語をテストや成績といった固定化した概念の中でだけ使ってきたためであろう。日々の生徒の生活状況を把握することは当然だが,国語科教師は「ことばの学び」がいかになされているか,授業の中で常にモニター(評価)しているはずである。テストの数値を見るまでもなく優れた教師は,授業の中で生徒がどのように力を身に付けているか,いわば「プロセスとしての評価」をたえず行っている。国語科の場合は,教科内容と言語活動とが密接な関係にあるため,教師の側から見て活動が盛んだと,学力も身に付いていると思い込むことも多い。しかしねらいに即した一人一人の学びの状況をリアルタイムに見取ってこそ,生徒の内面やつまずきに臨機応変に対応した授業が可能になるのだ。

そこで近年の授業研究においては,このような教師の側からの視点に加え,学び手の側からの視点の重要性も指摘されてきている。例えば横浜国立大学教授の髙木展郎氏は,「学び手のための授業研究とは,学び手のためによりよい授業とは何かということを,学びの主体である学び手も含めて考えることである。そのためには,学び手が事後研究に参加し,学び手の立場から授業についての意見や考えを述べることが必要になる。」(『ことばの学びと評価』,三省堂,2003年)と述べている。

前述の学生たちの模擬授業の後には,生徒役の学生からこうした「学び手」としての容赦ない意見も提出される。「発問してからの指名が早すぎる」「発言の意図を汲み取ってくれなかった」「机間指導の際,もう少しヒントが欲しかった」などといった「学び手」からの意見は,すべて生徒の状況の「見取り」、つまり「評価力」の不十分さに関する指摘である。

そしてこの「評価力」は,生徒と長く接するうちに自然と身に付いてくるだけでなく,意識して身に付けようとしなければ身に付かないものでもあるだろう。なぜなら,「目標に準拠した評価」とはあくまで目標設定が前提であり,目標意識のないところに「評価」はありえないからである。

学生たちに「経験」は確かに乏しい。しかし教職を目指して取り組むその真摯な「眼差し」には思わずドキリとさせられることがある。そして今更ながら彼女たちが真剣な「学び手」であることを痛感する。そう,ここまで述べてきた教師論はすべてこれからの私自身にかかわることでもある。ノートルダム清心女子大学の凛とした学生たちと私との学び合い,それが新しい時代の子どもたちの教育の充実に少しでもつながれば,と大学の教壇にぎこちなく立ちながら,密かに,そして切に願わずにはいられない。

画像は、いずれも模擬授業の様子。

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