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日本語日本文学科

2008.10.01

アメリカ東海岸から日本文学を考える|海野 圭介|日文エッセイ 60

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第60回】2008年10月1日

アメリカ東海岸から日本文学を考える
著者紹介
海野 圭介(うんの けいすけ)
古典文学(鎌倉~江戸)担当
鎌倉~江戸初期の和歌の歴史を研究しています。また、海外における日本文学の翻訳と研究にも関心を持っています。

※教員情報は、掲載時のものです。

日本の25倍の国土を持つアメリカ合衆国は、その東端と西端では時差3時間、季候や文化もまるで別の国のように異なる。日の光の眩いロサンゼルスやサンフランシスコなどの西海岸の都市と、ニューヨークやボストンといった東海岸の都市は道行く人の雰囲気すらも異なる。

かつては小澤征爾の指揮するボストンシンフォニーで、昨今は松坂大輔投手のレッドソックス入団で話題となったボストンは、合衆国の東端北部に位置する。日本からの直行便の運航は無く、成田空港から約12時間のフライトの後、中部のシカゴやデトロイトで乗り継いで更に2~3時間、大都市の中では恐らく最も日本からのアクセスの便が悪い。

ボストンは一大大学都市である。ノーベル賞をめぐるニュースにほぼ毎年登場するMIT(マサチューセッツ工科大学)や世界一との評価も高いハーヴァード大学をはじめとする多くの高等教育機関があり、学生の住む都市部の平均年齢は30歳代とも20歳代(?)とも言われている。

ボストン中心部から地下鉄(ボストンでは"T"(ティー)と呼ばれる)で20分ほど郊外へ向かうとケンブリッジの市街の中に広大なハーヴァード大学の学舎が見えてくる。充実した施設の中には、エドウィン・O・ライシャワーの名を冠する日本学の研究所もある。ライシャワーの名は、多くの日本人にとって既に馴染みの薄いものとなったが、60年代には駐日大使を務め、日本の文化と政治を合衆国に伝えた知日派の政治家であり、また卓越した東洋学者でもあった。ライシャワー研究所では、連日多彩なテーマで大小様々な学術会議やセミナーが開かれ、東海岸における日本研究の拠点となっている。昨年(2007年)11月には、Beyond Buddhology: New Directions in the Study of Japanese Buddhism(仏教学を超えて:日本仏教学の新たな視界)と題された会議があり、招かれて研究報告を行った。

仏教に限らず、信仰に対する理解は、その文化を理解する上で欠くことのできない要素の一つである。文学・芸能・美術工芸・古文書などの史料を調査し読み進めつつ、その文化の培った思考や行動様式を理解しようとする姿勢は、その思想や慣習の理解をバックボーンとしてそれぞれの作品を理解する立場と表裏一体の関係にある。現在「日本文学」の「作品」とし理解されている多くの文章を成立当時の環境に置いてみると、不特定多数の読者の余暇を充実させるために著された作品は極めて少ないことがわかる。今では街の本屋で文庫本が手軽に買える『源氏物語』は、ある特定の姫君の養育のために書かれたものと考えられるし、鎌倉から室町時代に作成された、面白可笑しい話や不思議な話を載せる説話集の多くは仏教の教えを民衆に広めるための例話集であった。「作品」を単立する言語芸術と見て、作者や時代背景から切り離して鑑賞する立場が主張されたことも一時期あったが、やはり、それを取り巻き、成立させた様々な要素から切り離して「作品」を理解することはできない。個々の「作品」には、それぞれが著される理由があるのであり、執筆の事情や作者や読者の置かれた歴史的状況は、時に作品そのものよりもドラマティックである。

海外の機関において日本文学についての報告を行うと言うと、「教えに行かれるのですね」と返されることが多いが、海外の研究者からは勿論のこと、そこでの生活一日一日からも教えられることの方が却って多い。毎日の生活では自覚されない日本的思考や慣習について、海外に出た途端に違和感を覚えることもある。国内においては何ら疑問を抱くに及ばない日常が、異なる文化に身を置くことで相対化され、その個別性が顕在化するからなのであろう。

日本文学に限らず、外国人が日本を対象とした研究を行う際には、それは最初から他者として存在する。対して、日本人が日本を考える際には、当事者でもあり、主観的、感情的になりがちでもある。日本人が研究対象として日本や日本文学に接するためにはどのような態度が必要なのか?客観化や相対化といった視座のあり方は、ものごとを分析的に考える際の基本中の基本だが、日本から離れた地に身を置くことも、そうした視座を得るための一つの方法となるだろう。だが、あまりに環境が違いすぎると、自分の中の日本的なものへと意識が回帰する余裕もなく、現地の異質性ばかりが目につき、興味が先へ先へと向かってしまうようにも思われる。その点、合衆国東海岸には日本研究の地盤があり、またニュースなどを通して渡航以前に知る情報も多いため、改めて「日本とは?」などと考えてみる余裕も生まれるのかもしれない。対象に近いからこそ解ることも多いが、対象から距離を置くが故に見えてくることも決して少なくはない。日本の外から日本を見ることもそうした例に漏れない。

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