• Youtube
  • TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • アクセス
  • 資料請求
  • お問合せ
  • 受験生サイト
  • ENGLISH
  • 検索検索

日本語日本文学科

2009.01.05

清少納言とフェルメール|片岡 智子|日文エッセイ63

Twitter

Facebook

日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第63回】2009年1月5日

清少納言とフェルメール
著者紹介
片岡 智子(かたおか ともこ)
古典文学(平安)・日本文化史担当
文学と文化史の観点から古代文学、主に和歌を研究しています。

※教員情報は、掲載時のものです。
はじめに
ご存じのように清少納言は日本の平安時代の随筆家で、フェルメールはオランダの十七世紀の画家です。去
年の暮れには東京でフェルメール展が開かれました。また、その絵が所蔵されている美術館を巡る世界旅行まであるそうで、今や人気の画家となっています。
国も時代も違い、かたや文学、かたや絵画とジャンルも異なりますが、そのような二人の共通点を、ある日『枕草子』を読んでいて深い感動とともに気づきました。それは、二人とも同じようなまなざしの〈眼の人〉だということです。フェルメールには「手紙を読む女」という絵がありますが、清少納言も手紙を読む女を、魅力的に描写しているのです。
 
フェルメールの絵の世界
フェルメールの「手紙を読む女」は、画面左側の開け放たれたガラス窓から、穏やかな日の光りが射し込み、その明るい窓辺に向かって横向きの若い女性の立ち姿が描かれています。女性のうつむきがちな視線をたどると、今しも両手に持った手紙を一心に読んでおり、思わず何を読んでいるのかと、手元の白い手紙の中をのぞき込まずにはいられません。そして、手紙は誰からのもので、彼女はいったい何を思っているのかと、いつの間にか絵の中に引き込まれて行きます。

周りはというと、手前にはベッドカバーでしょうか、無造作に絨毯のような織物が掛けられ、その上には大皿に盛られた果物がこぼれ落ちそうです。実際、三つ、四つ、こぼれ出ています。今しがた手紙を読むためにあわてて置いたようにも思われます。女性は髪型も洋服もおしゃれで、場面全体に満ち足りた平和な時間が流れています。

描かれたのは、大航海時代のオランダの、とある市民の日常の一齣にすぎません。けれど、過ぎ去ってしまう一瞬の輝きがカンバスに封じ込められ、見る者は画家の魔術に掛かったように惹きつけられ、その絵の前でじっと佇むことになります。

清少納言の手紙を読む女
さて清少納言の「手紙を読む女」は、『枕草子』の二七五段(新日本古典文学大系本)に登場します。この章段は手紙をテーマにして三つの場面から成り立っていますが、まずは雪が降りしきる折、傘を差して塀の戸口から貴人の警護やお使いをするスマートな随身らしき男が手紙を差し入れる場面が描いてあります。これはこれで王朝らしい文使いの一齣で、一幅の絵を見ているようです。
それに引き続いて、いきなり手紙の詳細な描写がはじまります。そこからが「手紙を読む女」の場面です。

どうやら受け取ったのは、女房のようです。

いと白(しろ)き陸奥(みちのくに)紙(がみ)、白(しろ)き色紙(しきし)のむすびたる、上(うへ)にひきわたしける墨(すみ)のふと氷(こほ)りにければ、末(すそ)薄(うす)になりたるを、

手紙は真っ白な陸奥紙か、あるいは白い色紙で、結び文です。それは、恋文でしょうか。その結び目の上に封をするために引いた墨が、書いていくはしから凍ってしまい、下の方がかすれて薄くなっているとあります。ここで読む者は、その日の寒さをも体感しながら、視線は女の手元へと集中させられて行きます。
そして女は封を開けます。すると、筆者に導かれるままに読者は、さらにズームアップされた手紙の中へと吸い込まれるのです。

あけたれば、いと細(ほそ)くまきてむすびたる、巻目(まきめ)はこまごまとくぼみたるに、墨(すみ)の
いと黒(くろ)う、うすく、くだりせば、裏表(うらうへ)かきみだりたるを、


開けた手紙は、とても細かく巻いて結んであるので、その折り目が細々とくぼんでおり、書いてある墨の色はとても濃く、また薄く、末の方の行間は狭くなっていて、表から裏にまで乱れるように書いてあるのです。それは、驚くほど写実的な描写となっています。しかし何が書いてあるかまでは分かりません。そういうところもフェルメールの絵とそっくりです。

そして再び、筆者の元のまなざしへと戻ります。

うちかへし、ひさしう見るこそ、なにごとならんと、よそにて見やりたるもをかしけれ。

女は繰り返し、長い間手紙を読んでおり、それをいったい何事であろうかと、はたから眺めているのもおもしろいと締めくくっています。
最初からここまで途切れることなく一文で、一筆書きのように一気に描ききっています。スムースな視線の移動のためには、文を切ることができなかったのでしょう。少々強引に最後の「をかしけれ」によって一文がまとめられ、『枕草子』の「手紙を読む女」は、あたかも言葉で描いたタブローとして完成する仕掛けとなっています。
 
おわりに
このように清少納言とフェルメールは、同じテーマを、同じようなまなざしで見事に描いています。そして、フェルメールがオランダの一市民の日常の一齣を永遠のものとしたように、清少納言の手紙を読む女の描写も、平安宮廷でのふとした一場面を永遠化したものにほかなりません。二人とも〈眼の人〉として、それぞれの日常の、過ぎゆく時間の中に美を発見し、それを描こうとした画家と随筆家だったといえましょう。

ただし、清少納言のまなざしは素早く遁走し、額縁をはみ出して行きます。だからこそ、逃すことなく、名画にも匹敵する魅力的な断片を、これからも追いかけて行くことにいたします。

日本語日本文学科
日本語日本文学科(ブログ)

一覧にもどる