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日本語日本文学科

2007.02.01

他者の「礼儀」を測る時 ―或る日のクラスから―|氏家 洋子|日 文エッセイ40

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第40回】 2007年2月1日

他者の「礼儀」を測る時 ―或る日のクラスから―
著者紹介
氏家 洋子 (うじいえ ようこ)
日本語学・日本語教員養成課程担当
ことばが私たちの精神活動や社会・文化とどう関係し合うかについて考えています。

今、担当する授業の中で最も多彩な学生の集まるものは対照言語学である。学生の所属は日本語日本文
学科、英語英文学科、現代社会学科、児童学科、大学院文学研究科。中国から2名、台湾から2名の留
学生。社会人経験者、主婦であり母である方。単位を取るためでなく聴講だけの方も含まれる。後期は
演習形式で35名ほどのため、何とかお互いに膝を交えて話し合う形が取りたいと、毎週、室内でガタ
ガタと席を移動させ、変形の三角形状になって坐っている。ロの字型よりは全体としてお互いの距離が
近く、顔も見えて、声も聞き取り易いと自負しているが、もっといい方式があればとも思う。

日本語と英語を対照させることが中心で、後期は日本語の小説がどう英訳されているかを見ながら、その背景にある文化の違いを話し合っている。この時、中国語母語話者に中国語社会の場合は?と尋ね、答えて貰えることで、視角がグーンと広がる。中国語履修者が多いこともあってか、クラスでネイティブから様々な情報が得られることは好評のようだ。

先日、こんなことが話題になった。「みっともないからね」という現代日本小説での表現が、英訳本では'It's indecent.'となっている。若い女性が男性の前で脚の毛を脱色するということに関してである。英語英文学科のレポーターが「日本人が持つ、人の目を気にする性格」が出た表現であり、英語では相当表現がないと指摘し、意見交換の開始。

この英語は「慎ましさを損なう、下品、不作法」の意で、強い語とされるため、非難を伴い得るので、その意味では相当表現だ。しかし、日本語は「人目に対して恥ずかしい」と、他者の目を気にした表現。はじめは「みとうもない」(見たくもない)と話者の対象に対する気持を表わしたものが、「みともない」、「みっともない」という発音の変化を伴いながら、意味合いにも変化が起き、他者の言動等に対する諌めや批判の言葉として使われるようになったらしい。

非難を伴う、その意味では私的な場面で使われる、理屈を伴わない語で、最近の生活では耳にすることもないが、今時使われるのかと、不安や逆に新鮮さも感じて、どんな時に、どんな事柄に使うかを聞いてみたところ、「子どもの頃、母親に言われた」という学生。「女の子なのにお行儀が悪い」ということが理由だったと。子どもの時、行儀に関して言われたという意見が多数だった。当の小説の作者は吉本隆明を父にもち、三十代後半か。

どんなことが、なぜ、「みっともない」ことなのか。学生と年の変わらぬ坊ちゃんをもつ方が意見を提供。「最近、水やアイスクリームを道を歩きながら、あるいは、電車内で、飲食する人を見かけるので、みっともないから息子にあんなことはしないようにと注意している」「お行儀の悪いことだから」と発言。なるほど親心だなあと思い、それではと、それをお行儀が悪いとかみっともないと思う人はと挙手を求めたところ、挙手した学生はいなかった。「歩きながらそんなことをしたら危ないから、そういうことをお行儀の悪さ、みっともなさとして避けるようにしてあるのでしょうね」と、内心焦りつつフォローしたが、なぜか、珍しい沈黙の持続を意識。挙手しなかったということが、それをよしと思うとか、実行するとかということに直接つながるわけではないが、それだけありふれた光景になったということなのだろうかなどと想像しつつ、沈黙の意味について考える羽目になった。

そう言えば、1990年代に入ってから学生が授業中、水を飲むという現象が出現し、「社会問題化」したことがあった。当時の勤務先で教員室で憤慨する同僚に「文化によっては教師も学生も共にティーなど飲みながらということもありますが」と情報提供のつもりで言ったところ、「ここは日本だ ! 」と怒鳴られたのには驚いた。

最近は健康についても情報が多く入手できるようになった。水を飲むことは奨励されており、しかも、以前と違って、家庭などには水道にトリハロメタン除去のためにも浄水器が普及している。外出したら、自分の体を守るために、必要に応じ、飲料水で水分補給をすることについて他人からとやかく言われる覚えはない。と、そう言われたら引き下がるしかないだろう。礼儀作法というものもどんどん変わる。その実質の変化は「マナー」とか「配慮」というような語に市民権を与えることになるのではないか。また、「坐」の文化が「立」の文化へ近づきつつある過渡期かも知れない。

人は自分の育った環境で身につけたものを基準として周りを見る。言葉の使い方で考えればすぐ思い当たることだ。ただ、人には生い立ちの中で見聞きしたものを良しとする立場と、異なるもの、新しいものに対して興味、関心をもち、肯定的に見る立場のどちらを取るかの傾向がありそうだ。

この生い立ち自体が日本の経済や生活が激しく変化を遂げた1980年代以降である学生に対して、異なる時代の生い立ちの中で身につけたものを基準に発言すると、そこには対立的なものが意識され得るのではないか。時代に限らず、文化についても同様だ。礼儀とか言葉遣いという、自身が無意識の内に身につけたものに関しては、ほとんど自動的に自分の基準で他者を測る。そして、そのことが、実は相手も何らかの相当物をもつということを気付かせにくくする。そこからどれだけ生産的なものが得られるかを考えると惜しいことだ。

クラスの終わりに感想をと聞くと、現代社会学科の学生が「女の子だから、という言い方にはジェンダーの問題がある」。そこでまた、起こり得る誤解を回避しようと、日米型と北欧型のフェミニズムの違いについてまで話が延びてしまう。中国、台湾の学生からは共に女性にと要求されるものはあるが、日本ほどではないとの情報も出る。

クラスで学生と話し合っていると、とりわけバラエティのあるクラスでは、意見の異なりが相互の姿を照らし出すと共に、異なるものから汲み取るものの多いことが示唆されていることを感じる。

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