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日本語日本文学科

2006.11.01

形容詞のはなし|星野 佳之|日文エッセイ37

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第37回】 2006年11月1日

形容詞のはなし
著者紹介
星野 佳之 (ほしの よしゆき)
日本語学担当
古代語の意味・文法的分野を研究しています。

形容詞と形容動詞がどう違うかということを国語の時間に習ったとき、「楽しい思いがした」「目から鱗が落ちるようだった」という人は殆どいないのではないか。「イで言い切るのが形容詞で、ダなら形容動詞」、「終止形以外の活用もそれぞれ違う」、「しかし肝心の役割は物事を形容する点で同じ」、それでそれぞれ形容詞と形容動詞。これならつまらなく思って当然で、大学で文法を教える私にも誠につまらない。

そもそも名前・分類名だけの議論をしていると、往々にしてどちらでもよい感じがしてしまうもので、例えば最近の冥王星が惑星か否かというニュースも、この形容詞・形容動詞の話に似たものを感じたものである。そもそも冥王星を見たこともない私は、テレビで「寂しいです」などとインタビューに答える人たちを見てもその寂しさが共有できない。あの人達は日頃から望遠鏡を覗く天文マニアか何かなのだろうか。あの星がなくなるわけでなし、「惑星でなければ冥王星が気の毒」というのは、やはり本質を置き去りにした議論に聞こえる。

天文学者達が論じていたのは冥王星の性質についてであったはずで、その議論の細かい内容はよく分からないけれども、冥王星と地球などいわゆる「惑星」との違いを考えるのは、太陽系の誕生の理解にもつながるらしい。それに連動して分類も疎かにしないということのようだ。分類とは名前を付けることが目的なのではない。性質の違いや共通点をとことん明らかにした結果として、名前が与えられることがあるだけである。その点は天文学も文法論も変わらない。

形容詞と形容動詞の違いについても、これがつまらなく感じるのは「イで終わる、ダで終わる」という説明のまずさのせいで、両者の性質に目を向ければもう少し違った話になるだろうと思う。(活用の違いだけで区別するのはどうしても無理があるし、動詞の方では五段活用でも変格活用でも同じ動詞なのだから、同一の文法体系の中でも態度が一貫していないのである。)

活用よりも性質の点で見た場合、いわゆる形容詞(「おいしい」等)と形容動詞(「きれいだ」等)の違いのうち、例えば注目してよいと思うのはその「生産性」の差である。「形容動詞」の方は、「―だ」といういわゆる「語尾」を色々な語につけて、新しい形容語を簡単に作ることができる。これを指して「生産性が高い」という。一方の「形容詞」は、そう簡単に新しい「―い」の語を作ることはできず、「生産性が低い」。「リーズナブル・だ」のように、外来語などを作るのは専ら形容動詞の方であるし、「安全だ」のような漢語だって元はこうして導入されたのだろうから、日本語はとても便利にこの「形容動詞」の生産性を活用してきたのである。

ところが、生産性の低い「―い」の「形容詞」の方が、稀に新語を造ることがないでもなく、むしろこの「生産性の低さ」を利用してできたと思われる流行語がかつてあった。もう今の高校生・大学生は知らないだろうが、「ナウい」という語がそれだ。見ての通り英語の「now」を基にして「今風、最新の」という意味に用いたこの語は、本来なら「ナウ・だ、ナウ・な...」と「形容動詞」にするのが日本語の常道のはずだった。そこを敢えて無理矢理「―い」の形で造語し、「ナウ・い、ナウ・くない、ナウ・かった」と活用までさせた意外性にこそ、この語の眼目はあったのだろう。その意味自体には別段の目新しさもなく、実際流行したもののすぐに廃れた。今は揶揄としてもなかなか通用しにくいのではないだろうか。

この「ナウい」という語、特にその出来の背景には興味深いものがある。こういう語を意外性のものとして誕生させまた受け入れた以上、日本語の話者達が実は「形容詞」と「形容動詞」の生産性の違いを理解している、ということを示すからである。「イで終わる、ダで終わる」と言われれば苦手な感じがしても、またテストで「形容詞」と「形容動詞」の違いが答えられなくても、その分類名称を飛び越えてそれぞれの性質は感じ取っているのであって、時にはそれを逆手に取る遊び心も見せるくらいだから、生産性以外の性質にもその直感は達していよう。私たちが「形容詞」「形容動詞」の分類を受け入れる素地は十分にあると言える。要はやはり、説明のまずさに尽きるのだと私は思う。

無意識に誤解されていることだが、文法とは既に決められたものではなく、私たちが私たちの言葉について考え、解釈した結果の集まりである。だから今「形容詞」だと呼ばれるものが、いずれ別のものに分類し直されることだってあり得る。その点でも、冥王星が或る日から惑星と呼ばれなくなるのとよく似ている。それは対象に対する我々の理解が深まったということで、形容詞や冥王星の価値は上がりも下がりもしない。

日本惑星科学会も今回の経緯を「科学者たち全体の理解を深めるためのプロセスだった」と声明したが、まさにそうだったのだろう。「形容詞」と「形容動詞」も、その性質が確かに実感された上でなら、両者に別々の分類名称が与えられてもさほど混乱を招かないはずである。

* * *
だから名前そのことが問題ではないのだが、それでも天文学の命名センスの素晴らしさには感服する。星々の名前が神話に由来するからというだけでない。冥王星は惑星でなくなる代わりに、太陽系の外側に無限に広がる世界に、無数に存在する小さな天体群の筆頭となるのだそうだ。私たちの世界が遂に果て、そこから先はもはや太陽系とは呼ばれない未知の領域を背後に率いて、境界線上で冥王が私たちに対峙している。これはむしろ「惑星」であった頃よりもふさわしく、今や他に考えようのないネーミングではないか。冥王星の為に何を泣くことがあるだろう。

翻って我が「形容詞」と「形容動詞」。宇宙規模の壮大さまでは求めないにしても、依然はたと膝を打つような名称ではない。ならおまえはどう名づけるのだと言われても「旧形容詞」「新形容詞」くらいのもので、もともと私は天文学向きではなかったのだと痛感する。

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