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日本語日本文学科

2006.03.01

感情表現を耳にすることと口にすることと ―日本語の「悔しい」 の場合―|氏家 洋子|日文エッセイ29

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第29回】2006年3月1日

感情表現を耳にすることと口にすることと―日本語の「悔しい」の場合―
著者紹介
氏家 洋子 (うじいえ ようこ)
日本語学・日本語教員養成課程担当

ことばが私たちの精神活動や社会・文化とどう関係し合うかについて考えています。

感情とか情動とかというものはホモサピエンスとして民族や文化のちがいを超えて共通するもののように思っていたが、必ずしもそうとは言えないらしい。例えば「懐かしい」という感慨はドイツ語社会の
人には通じにくいと言われる。英語でも 'feel nostalgic' と日本語をあえて置き換えて口にしたところ、「それはいい英語だ」と年かさの英国女性に言われたことがある。この場合、当の女性にしてみれば
「いい表現だ」という意味だったかもしれない。そんな風に言うほど、つまり、英語社会では日常耳にする言い方ではなかったという記憶が、僅か数年の滞在からではあるが、甦る。

「甘え」についても同様である。精神医学の土居健郎氏の臨床研究と内省とによってこの日本語母語話者が日常的に意識し得る感情は1970年代に日本社会の代名詞として使われ得るほど有名になった。だが、英語ではこの感情が否定的に評価されるためか、言語記号化されるに至らないようだ。「甘ったれ」「甘えん坊」は 'a spoilt child' としか訳されないようだが、これは 'spoilt eggs' 同様、「だめになった」という意味を表す。日本語の「甘え」のもつ社会的に是認された肯定的意味合いとはほど遠い。もっとも、朝鮮語Koreanでは日本語以上にこの感情を細やかに表す語彙が発達していると言う。

或る感情を表す言葉が存在するか否かは民族・文化の或る面での質の違いを映し出すようだ。その言葉の存在する背景には人々が集団で暮らす中で何かを意識するようになり、それが複数の人々に共有されているという状況がまず想定される。何かが起きた時、当の人々の間でそれがほぼ同時に意識に上り、それが何らかの形で表現されたものが合図のように働く時、言葉として記号化される道が開かれる。多くの人々に意識され、やがて、「懐かしい」とか、「甘え(る)」など、言葉としての定着を見る。

しかし、或る言語体、ラング、に或る言葉が在るからと言って、その母語話者のすべてがそれを常に使ったり意識したりするとは限らない。個人差があるようだ。例えば「悔しい」という言葉。1970年代に或るエッセイを書いたことがある。大学院時代、仲間の一人に私への同情か共感かを表明する言葉として「悔しいものね」と言われた時の違和感についてである。「悔しい」という語は言わば「私の辞書にはない」言葉だった。その原因をあれこれ考えた文章だったが、最近引っ越し荷物を片づける中で偶然みつけ、そこで原因が解明されているとは言えないことに気づいた。

ところで、金田一春彦氏の『日本語 新版(上)』(1988刊)にはフランス文学を専門とする日本人が渡仏し、大学で日本語を教えた際にこの「悔しい」が理解されないため、具体例を挙げて説明に躍起となる様が記されている。「電車に乗り遅れそうになり、懸命に走ったが目の前で発車してしまった時、どう思うか」の問に学生は「もっと早く家を出ればよかったと思う」と答える。「大事な試験で、答案を提出後、名前を書き忘れていたことに気づいたら?」これには「何て私は愚かなのだろう」、さらに「好きな相手に明日プロポーズしようと思っていた矢先、自分と仲の好い友人と婚約したと知った時は?」に対しては「それが人生さ」という答が戻るという具合で、どうしても「悔しい」が理解されなかったというのである。

数年前、海外の言語学関連の会議でこの日本語について調査・発表した英国人と話したことがあり、こういうネガティブで非生産的な感情を固定化したような言葉は不可解だと聞かされた。日本語母語話者にはその思いをバネに、よりよい結果を出すよう立ち向かって行けるのだから生産的な言葉だと反論する人がいるかもしれない。それで思い起こされるのがダニエル・ゴールマンの『EQ こころの知能指数』である。

EQ はEmotional Quotient(感情指数)の略で、これについては日本でも2000年代初頭に新聞などでも紹介されている。この本は米国で1995年に刊行され、邦訳はその翌年、さらにその2年後には文庫版が出るという具合によく売れているようだ。この書は1980年代からの脳科学の発展を背景にもつ。今、基礎演習で1年生と読んでいる平木典子著『アサーション・トレーニング』などもこの線上に位置する。さて、私はここで自分の「常識」が覆されるという快い経験をした。感情は、とりわけ不快や過度な感情は、特に人前では、抑制するものと相場が決まっていたと思うのだが、そうではなく、感情はそれをもった当人自身のもの、だから大事にすべきだというのである。同時に、不快な感情に関してそれを起こすきっかけとなった対象を憎むのはお門違いだという指摘もある。確かに、同じ相手の同じような発言が聞き手のその時の状況次第でどのようにも響くという経験は誰しももつものだろう。

「悔しい」に戻ると、金田一氏が聞いて取り上げた例は必ずしも妥当とは言い難く、どうもこの語を発するのは人との何らかの意味での競争を含む状況が多く、それも、そこに懸命に関わって上首尾に終わらなかった時なのではないかと思われる。そのため、ここには敵意とか憎しみの感情が伴いがちで、それをも周辺に含む語としてこの語は把握され得よう。マイナスのイメージをもつ所以である。だが、先の書で言う「対象はその感情を引き起こすきっかけにすぎない」ということが何らかの形で意識されているなら、この語はめったに使われないということにもなりそうだ。フランスの学生達の発想回路に入り得なかったのではなかろうか。

しかし、「私の辞書」にこの語が載らずに来た理由は30年前にも薄々気づいていたらしいが、最近ではとても単純なものであると確信するようになった。身の回りでその語を見聞きすることが殆どなかったという、それだけのことのようだ。そのため、この語は私の中では理解語彙中にのみ存在し、使用語彙には入らなかった。ここ数年、いくつかの大学で学生に尋ねたところでは似たような学生はまれにしかいないことがわかり、これだけ普通の語だということになると、これが使用語彙に入らずにいるのは人生をやって行く上で何か問題なのではと心配が始まった。

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