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日本語日本文学科

2005.09.01

自転車と私|清水 教子|日文エッセイ23

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第23回】2005年9月1日

自転車と私
著者紹介
清水 教子 (しみず のりこ)
日本語学担当
語彙・文体を中心に、平安時代の公卿日記(変体漢文)を研究しています。また、室町末期の口語体のキリシタン資料にも関心があります。

自転車といえば、はるか昔のことが断片的に思い出される。小学校に上がる直前ぐらいの頃であったろうか。今でも頭の片隅に残っている1枚の写真がある。子供用の赤い二輪車(尤も、後ろの車輪には左右に補助の小さな車輪が取り付けられていたが......)のハンドルを握って、泣きべそをかいた写真である。私のすぐ傍には、三輪車を手にした近所の男の子が笑っている。三輪車ではなくて二輪車を希望したのは、私だったのか、それとも両親だったのか、今となっては思い出せない。が、とにかく、かなり早い時期に自転車との出会いがあったのである。

次いで、小学校の何年生の頃か、大人用の自転車に立ったままで(勿論、サドルに届かなかったので)、小学校の運動場で練習した思い出がある。その時は、父が自転車の後ろを持ってくれた。こうして、自転車に乗れるようになったのである。それ以来今に至るまで、自転車との縁は切れない。今まで自転車に乗っていて転んだのは、或いは、自転車同士ぶつかったのは、数えるくらいである。それによる怪我は不思議とない。

最初の衝突は、単車とである。幼稚園生の頃、祖父の漕ぐ自転車の荷台に乗っていて、ぶつかられたことがあった。その時も、怪我はしなかった。結構運がいい。今まで、小道の十字路のような所で自転車同士ぶつかりそうになることは多いが、ブレーキを反射的にかける癖が身に付いていて、衝突を避けてきた。こういった日常の訓練は、大事を避けるための神様からの試練と受け取っている。いざ、という時のための練習なのであろう。

さて、太いタイヤのマウンテンバイクとの出会いは、30代の後半であった。分解できるように、誂えて組み立ててもらったアラヤの自転車である。「泥んこ狐」なんて名前が付いていた。これで遠出をしたのは、ただの一度である。琵琶湖西岸の「近江今津」までJRを利用し、そこで自転車を組み立て、若狭海道を福井県の小浜市まで走った。片道40キロ強くらいであったろうか。お尻がサドルに擦れて痛くなった記憶がある。小浜市は古寺が多い。夏休みに、緑の中を古寺廻りをしたのは本当に楽しかった。しかし、今は空気が抜けたままである。普通の空気入れでは空気が入らないので、つい億劫になってしまう。

ところで、車との出会いは40代の後半であった。前の勤め先では、県外にも高校訪問をしたからである。公共の手段では時間がかかるので、一念発起した。何回も補修券を利用したが、実技は2回目で合格した。周りの人たちはおっとり型の私に、車の運転は無理だと言ったが、そんなことはない。小・中学校時代は、100メートル競走の選手だったのだもの......

高校訪問では、高知県境に近い徳島県の海南町まで雨の中を走った。母を乗せて、県北の東粟倉村までドライブしたこともある。一番の遠乗りは、一人で、鳥取県の大山を経由して島根県の仁摩町まで往復したことである。仁摩町は、1年計の大砂時計で知られている。車も、自転車同様に私に合っていると感じられた。

しかし、3年間乗っただけで、今は乗らない。新車のトヨタのスプリンターは、知り合いに安価で譲った。歩いたり自転車に乗ったりしなくなったので、脛が痛くなったのである。明らかに、運動不足であった。ところが、車の運転をやめて元の自転車の生活に戻ると、脛の痛みは自然となくなった。

今の自転車生活はと言えば、この5月から毎日曜日の朝、「吉備路自転車道」を備中国分寺までサイクリングしている。運動不足で、いささか太り過ぎてしまったからである。

片道16キロ、往復32キロである。マラソンの42キロには及ばない。通勤用の普通の自転車なので、片道1時間15分くらいかかる。上り坂や陸橋は、自転車を押している。周囲の田園風景を楽しみながら、軽く汗をかく今日此の頃である。

夢は、いつか、ニュージーランドの大自然の中を自転車で巡ってみたいことである。

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