2009.10.01
日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第72回】2009年10月1日
伝統的な言語文化に親しませる学習指導とは
著者紹介
大滝 一登(おおたき かずのり)
国語科教育担当
国語科カリキュラムや学習評価を中心に、国語科教育について理論と実践を通して研究しています。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行朝臣」
(『古今和歌集』秋歌上)
今年は記録的な長さで梅雨前線が停滞し続け,梅雨が明けたかと思えばもう立秋を迎えているという風
変わりな気候だった。暦の上での季節は変わってもこれからが夏本番と意気込んではみるものの,8月
半ばにもなると,日中の厳しい暑さとは対照的に,朝晩の微かな涼風が季節の移り変わりを否応なく感
じさせた。
【第72回】2009年10月1日
伝統的な言語文化に親しませる学習指導とは
著者紹介
大滝 一登(おおたき かずのり)
国語科教育担当
国語科カリキュラムや学習評価を中心に、国語科教育について理論と実践を通して研究しています。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行朝臣」
(『古今和歌集』秋歌上)
今年は記録的な長さで梅雨前線が停滞し続け,梅雨が明けたかと思えばもう立秋を迎えているという風
変わりな気候だった。暦の上での季節は変わってもこれからが夏本番と意気込んではみるものの,8月
半ばにもなると,日中の厳しい暑さとは対照的に,朝晩の微かな涼風が季節の移り変わりを否応なく感
じさせた。
そんな中,学生と行った授業研究会の場でこの名歌の素晴らしさを再認識した。今でも国語の教科書の多くに採録されている大好きな歌の一首だ。秋の到来を視覚でなく聴覚でとらえる自然感覚の敏感さはもちろんだが,自己を取り巻く自然に素直に接する作者の感性が「おどろかれぬる」という自発的な表現からうかがえて心地良い。さらには,夏の景色が色濃く残る立秋の日に,「目にはさやかに見えねども」とあえて述べることによって,やがて訪れる原色豊かな紅葉の様子が見えざる光景としてイメージされるのも巧みだと感心するが,これはいささか私の思い入れが強すぎるからかもしれない。とにかく,読めば読むほど,なるほど秋の到来はこういうものだと共感するばかりなのである。
私の感動はさておき,こうした自然への素直な感性を私たち日本人が大切にしてきたことは疑い得ない。そういう意味では,私がこの歌に感じる魅力は,もしかしたら私が日本人としての自分自身の感性に対して感じる魅力なのかもしれない。比較的平易な表現の歌ではあるが,この歌の力は,そのように強く意識していなかった自分自身の感性にまさに「おどろかれぬる」点にあるのではないかと思う。
ところで,この和歌は古典の授業でよく取り上げられているはずだが,この魅力は現代の中・高校生にも確実に伝わっているのだろうか。とりわけ高等学校の古典の授業は,文法事項や入試頻出語句の確認が前提となり,和歌の授業も訓詁注釈的で教師の一方的な解説に終始しやすいとよく言われる。国立教育政策研究所が実施した平成17年度高等学校教育課程実施状況調査によると,「物理の勉強が好きだ」という質問に「そう思う」または「どちらかといえばそう思う」と回答した高校生の割合が39.2%だったのに対し,「古文は好きだ」という質問に対するそれは23.1%にとどまっている。このように,古典は現代の高校生にすこぶる評判が悪い。
折しも新学習指導要領では,我が国の伝統と文化の尊重が重視され,国語科の指導内容には「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」という新たな事項も設けられた。活用型授業が注目される昨今だが,この新設事項においては,「古典に親しませる」ことを指導の重点に置きたい。古典の原文を読めるようにすることも確かに大切だが,古典の意義や素晴らしさを実感させることができなければ,授業はただ古典嫌いを増やすだけの営みに終わってしまうおそれがある。
大村はま氏はかつて,「国文学の研究を目ざしているのではないほとんどの中学生には,国文学研究に志す専門家の古典の学習のしかたそのままの方法がとられてよいわけはない。はっきりと別の方向へ向けたい,従来の方法とは別の,中学生のための方向を探したい,そうしてこそ,従来の国文学を学ぶ人とは別の,古典への深い親しみを持たせられよう。」と考えられ,「古典入門」の単元において,朗読,放送劇,幻灯,口語訳詩,討論会,学校新聞記事の作成など,グループまたは個人での豊富な言語活動を授業の中に組織された。(『大村はま国語教室3』,筑摩書房,1983年)
時代は変転し,国際化・情報化の流れにあって,当然のことながら中・高校生の気質や価値観も一様ではない。しかしこのような現代だからこそ,「秋来ぬと」の歌において私が私自身の中に見出した日本人としての感性や価値観を,子どもたちにも見つめてほしいと願う。今の自分自身を形作っているのは単なる個人の好みや価値観なのではなく,人や自然,郷土,歴史などとのかかわりなのだという意識を,古典の学習を通して少しでも高められればと思う。このような意識こそが,この郷土に生きて良かったという実感や,今の自分自身を愛しむことにつながるのではないだろうか。
古典は私たちの宝である。現代の中・高校生にこの宝を宝として感じてもらうためには,大村氏が模索されたように,古典の学習活動はあくまでも生徒主体のものでなければならない。古典学習においてどのようなねらいの下にどのような学習活動を組織すればよいか,新学習指導要領のキーワードである「言語活動の充実」の意味がここでも試されようとしている。
Photo by:S.suzuki(photost.jp)
・日本語日本文学科
・日本語日本文学科(ブログ)
私の感動はさておき,こうした自然への素直な感性を私たち日本人が大切にしてきたことは疑い得ない。そういう意味では,私がこの歌に感じる魅力は,もしかしたら私が日本人としての自分自身の感性に対して感じる魅力なのかもしれない。比較的平易な表現の歌ではあるが,この歌の力は,そのように強く意識していなかった自分自身の感性にまさに「おどろかれぬる」点にあるのではないかと思う。
ところで,この和歌は古典の授業でよく取り上げられているはずだが,この魅力は現代の中・高校生にも確実に伝わっているのだろうか。とりわけ高等学校の古典の授業は,文法事項や入試頻出語句の確認が前提となり,和歌の授業も訓詁注釈的で教師の一方的な解説に終始しやすいとよく言われる。国立教育政策研究所が実施した平成17年度高等学校教育課程実施状況調査によると,「物理の勉強が好きだ」という質問に「そう思う」または「どちらかといえばそう思う」と回答した高校生の割合が39.2%だったのに対し,「古文は好きだ」という質問に対するそれは23.1%にとどまっている。このように,古典は現代の高校生にすこぶる評判が悪い。
折しも新学習指導要領では,我が国の伝統と文化の尊重が重視され,国語科の指導内容には「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」という新たな事項も設けられた。活用型授業が注目される昨今だが,この新設事項においては,「古典に親しませる」ことを指導の重点に置きたい。古典の原文を読めるようにすることも確かに大切だが,古典の意義や素晴らしさを実感させることができなければ,授業はただ古典嫌いを増やすだけの営みに終わってしまうおそれがある。
大村はま氏はかつて,「国文学の研究を目ざしているのではないほとんどの中学生には,国文学研究に志す専門家の古典の学習のしかたそのままの方法がとられてよいわけはない。はっきりと別の方向へ向けたい,従来の方法とは別の,中学生のための方向を探したい,そうしてこそ,従来の国文学を学ぶ人とは別の,古典への深い親しみを持たせられよう。」と考えられ,「古典入門」の単元において,朗読,放送劇,幻灯,口語訳詩,討論会,学校新聞記事の作成など,グループまたは個人での豊富な言語活動を授業の中に組織された。(『大村はま国語教室3』,筑摩書房,1983年)
時代は変転し,国際化・情報化の流れにあって,当然のことながら中・高校生の気質や価値観も一様ではない。しかしこのような現代だからこそ,「秋来ぬと」の歌において私が私自身の中に見出した日本人としての感性や価値観を,子どもたちにも見つめてほしいと願う。今の自分自身を形作っているのは単なる個人の好みや価値観なのではなく,人や自然,郷土,歴史などとのかかわりなのだという意識を,古典の学習を通して少しでも高められればと思う。このような意識こそが,この郷土に生きて良かったという実感や,今の自分自身を愛しむことにつながるのではないだろうか。
古典は私たちの宝である。現代の中・高校生にこの宝を宝として感じてもらうためには,大村氏が模索されたように,古典の学習活動はあくまでも生徒主体のものでなければならない。古典学習においてどのようなねらいの下にどのような学習活動を組織すればよいか,新学習指導要領のキーワードである「言語活動の充実」の意味がここでも試されようとしている。
Photo by:S.suzuki(photost.jp)
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