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日本語日本文学科

2011.12.01

吉備真備のおばあちゃんの骨壺の話|木下 華子|日文エッセイ98

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第98回】2011年12月1日

吉備真備のおばあちゃんの骨壺の話
著者紹介
木下 華子(きのした はなこ)
古典文学(中世)担当
平安時代後期・鎌倉・室町時代の和歌や、和歌をめぐる様々な作品・言説について研究しています。
      
        
はじめに
 吉備とは、古代、山陽道にあった国で、現在の岡山県と広島県東部にまたがった地域である。瀬戸内海に面した温暖な気候・肥沃な平野・海上交通の便に恵まれたこの国は、農業・製塩・製鉄といった各種の産業はもとより交易や朝鮮・大陸との交通も盛んで、畿内に肩を並べるほどの先進地域であったという。天武朝から文武朝にかけての7世紀後半に備前・備中・備後に分割され、さらに和銅6年(713)に備前の六郡を割いて美作国が設けられたことにより、政治的・行政的単位としての吉備国は消滅した。しかし、その後も地域的総称・認識としての「吉備」は存在し続け、今に至っている。

 この「吉備」ゆかりの人物として思い浮かぶのが、吉備真備(695~775)。真備町(現倉敷市真備町)の町名の由来ともなった奈良時代の高名な学者・政治家である。父は吉備の豪族であった下道氏の出で、中央下級武官である右衛士少尉となった下道圀勝(しもつみちのくにかつ)。真備自身の出生は畿内であった可能性もあるが、姓は下道であった。霊亀2年(716)に遣唐留学生として入唐した真備は、帰国後に朝廷に仕え、天平18年(746)に吉備姓を賜ったのである。その五年後には遣唐副使に任命されて再び入唐、帰国後は異例なほどの昇進を続け、正二位右大臣にまで至ったのであった。

骨蔵器に刻まれた則天文字
 時代は下って元禄12年(1699)、備中国小田郡東三成村(現矢掛町東三成)から一合の骨蔵器が出土する。現在、「下道圀勝圀依母夫人骨蔵器」(岡山・圀勝寺蔵)と称されている火葬骨用の容器である。その蓋には、二重の円を描くようにして以下のような墓誌が刻まれていた。

(中圏)銘 下道圀勝弟圀依朝臣右二人母夫人之骨蔵器故知後人明不可移破
(外圏)以和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉成

 訓読すると、「銘、下道圀勝・弟圀依の朝臣、右二人の母夫人の骨蔵器なり、故知りて後の人明らかに移し破るべからず。和銅元年歳は戊申に次る十一月廿七日己酉を以て成る」。骨蔵器は下道圀勝・圀依兄弟の母のもので、器そのものは和銅元年(708)年11月27日に作られたということであろう。下道圀勝は吉備真備の父親であり、即ち、この骨蔵器は真備の祖母の遺骨を納めたものなのであった。

 ここで、真備の父とその弟の名として刻まれた「圀」の字に注目してみよう。訓読みは「くに」、「国」の異体字である。有名なものとしては、水戸黄門の名で親しまれる「徳川光圀」が挙げられようか。この「圀」の字、実は則天文字と言われる漢字の字体なのである。則天文字とは、中国、唐の三代皇帝高宗の皇后であり、高宗の死後に即位して国名を周と改めた則天武后(624~705)が制定した字体で、全体の字数は20字弱。載初元年(689)に最初の12文字が定められ、その後数度にわたって新たな字が追加されたのだが、「圀」は証聖元年(695)に制定されたようである。神龍元年(705)に則天武后が他界すると、四代皇帝中宗は則天文字を廃止したため、使用期間は15年という短さであった。つまり、この骨蔵器に出現した「圀」の字は、このような則天文字が日本に伝来し、和銅元年(708)には吉備の地において受容されていたことを端的に物語っているわけである。
 
伝来のルート──大宝の遣唐使と朝鮮半島と──
 では、則天文字は、いつどのようにして日本に伝わったのか。

 一つめの可能性は、遣唐使である。この頃、日本から唐へ定期的に派遣されていた遣唐使は、唐帝への国書・贈物を献上することを任務としたが、同時に唐文化を移入する機関としての重要な役割を果たしていた。則天文字が使用されていた期間の遣唐使は、大宝2年(702)に難波津を出立したもののみ。その帰国は、慶雲元年(704)7月と慶雲4年(707)3月の二組に分かれていた。704年帰国組と707年帰国組のどちらが則天文字を持ち帰ったか(あるいは両方か)は不明だが、慶雲4年(707)7月に書写されたという奥書を持つ正倉院収蔵の『王勃詩序』(唐の王勃の詩文を抄出したもの)にはすでに則天文字が見出される。つまり、遣唐船の帰国から多く見積もっても数年の間に則天文字は受容されていたことになろうか。

 二つめの可能性は、朝鮮半島を経由する道筋である。新羅景徳王10年(751)以前の木版印刷物である『無垢浄光大陀羅尼経』(1966年に韓国の慶州仏国寺で発見)には、いくつかの則天文字が使われていた。朝鮮半島の現存資料において大宝の遣唐使の第一陣が帰国した704年よりも確実に古い則天文字が見出されているわけではないが、ここからは少なくとも、則天文字を含む文物が朝鮮半島に伝わっていたことが理解される。即ち、新羅・百済を経由して日本に伝来したというルートも十分に考えられるのである。

終わりに
 則天文字が遣唐使によってもたらされたか朝鮮半島経由で伝来したかのいずれにせよ、わずか15年程度という文字の使用期間と当時の情報伝搬の速度を思えば、真備の祖母の骨蔵器が、日本に伝えられたばかりの則天文字をかなりのスピードで受容しているということは確実だろう。吉備においてこの骨蔵器が成ったのは和銅元年(708)11月。当時の文化中枢であり招来した中国の文物を吸収する中心基地であった都、そこでの則天文字の受容を示す『王勃詩序』との時間差はわずかに一年余りなのだから。なるほど、「吉備」はまさしく、古代の先進地域なのである。

*下道圀勝圀依母夫人骨蔵器と則天文字に関する資料は、稲田奈津子氏にご教示いただいた。
 謝して記す。
               
上画像は、いずれも「下道圀勝圀依母夫人骨蔵器」(圀勝寺所蔵・重要文化財)、高さ23.1cm。写真は国立歴史民俗博物館所蔵の複製。無断転載を禁じます。

骨蔵器が出土した地点と考えられる矢掛町東三成の「下道氏墓」(国指定史跡)。鷲峯山の南にのびた支脈の尾根近く、南面した斜面にあり、下には高梁川にそそぐ小田川が流れている。
           
※エッセイのタイトル、画像の説明等に一部誤りがあり、訂正しました(12月2日)。

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