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日本語日本文学科

2012.10.01

古典の現在性─『方丈記』800年に思う─|木下 華子|日文エッ セイ108

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第108回】2012年10月1日

古典の現在性─『方丈記』800年に思う─
著者紹介
木下 華子(きのした はなこ)
古典文学(中世)担当
平安時代後期・鎌倉・室町時代の和歌や、和歌をめぐる様々な作品・言説について研究しています。
 
はじめに
 2012年は、ある古典作品のメモリアルイヤーである。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」に始まる鴨長明の『方丈記』だ。末尾に「建暦のふたとせ、弥生の晦日(つごもり)頃、桑門の蓮胤、外山の庵にしてこれを記す」という
一文があり、この作品が今から800年前の建暦2年(1212)3月の終わり頃に書き上げられたことがわかる。

 800年。その時間は私たちの体の実感を遥かに超える。私自身は鴨長明の諸作品を専門に研究しているが、生きてきた時間は40年弱。800年という時間の感覚は実感できようもない。しかし、時折思うのだ。
研究者は職業柄、論文をはじめとして様々な文章を書く。このエッセイも含めて、私が書く文章は800年後も残り得るのだろうか。これでは事態を正確に表せてはいない。データとしては存在し得るかもしれないのだから。問いの形を変えよう。私の文章は、800年の間、読み続けられることが可能なのだろうか。

古典は過去のものか
 一旦、作品が長期間にわたって生き続けるという実態を考えてみよう。文学史の年表上の表記は、
「1212年に『方丈記』成立」。年号的には、現代とは隔たった過去のものだ。しかし、作品がどうやって800年という時間を生きのびたのかを考えると、事態は異なる。

 成立から800年と言っても、長明が建暦2年(1212)3月に書き上げた自筆本がどこかに残っていて、ある日発見されたというものではない。私たちは本が読みたければ購入すればよいが、商業出版が存在しない時代、作品を読んで手許に置くためには、誰かからその作品を借り、筆と墨で和紙に書き写さなければならなかった。このようにして書き写された本を「写本」という。現存する『方丈記』の最古写本は、寛元2年(1244)に醍醐寺の親快という僧侶に伝えられた大福光寺本というものである。以下、鎌倉・室町・江戸時代を通して50本程度の写本と、江戸時代に出版された古活字本・板本が現存するが、これらの数字は氷山の一角に過ぎない。この800年もの間、日本にどれだけの火災や戦乱が起こったかを考えてみてほしい。
紙の本など、あっという間に燃えてしまう。現存する本の向こう側には、もっと多くの写本が存在したことだろう。800年とは、生きる時間も場所も異なる多くの人々が作品を書き写し、読み継いできた時間なのである。

 それだけではない。例えば、能楽の大成者・世阿弥は『方丈記』の読者であったが、その手になる「養老」という能には、「ゆく河の流れは絶えずして」に始まる『方丈記』の序文が用いられている。夏目漱石や南方熊楠は『方丈記』を英訳した。太宰治は、『右大臣実朝』において鎌倉幕府三代将軍源実朝と鴨長明が対面する場面を描き、小説中で『方丈記』を「天下の名文」と記す。芥川賞作家である堀田善衞は昭和20年の東京大空襲をはじめとする戦中の体験から『方丈記』中に描かれる災厄を思い起こし、後に『方丈記私記』という長編エッセイを刊行する。このような引用・加工・再生
産を見ると、『方丈記』が保存された遺物ではないということが明確に理解されるだろう。古典とは決して過去の遺物ではない。それを読む者の今に影響を与え、新たな作品を生み出すような現在性を常に帯びているのである。
 
2011年の『方丈記』
 私自身、『方丈記』の現在性を強く印象付けられたのが、昨年3月に起きた東日本大震災であった。3月11日の本震からわずか6日後の3月17日に朝日新聞の天声人語が『方丈記』中の「元暦の大地震」と言われる災害を記した場面を引用したのをはじめとして、多くの新聞記事や識者のコラムなどが『方丈記』を通して大震災を考えようとした。大正12年(1923)9月の関東大震災においても、『方丈記』を引き合いに出しつつ大災害を語った知識人は多かったらしい。この時、『方丈記』は私たちの現在がいかなるものであるかを捉え直すための媒体だとも言えようか。「今」という時間の渦中にいる私たちが、その「今」を客観視しようと思ったら、「今」から距離を置く必要がある。古典作品を読む時、私たちは、一旦「今」から離れ、過去という時間の中に滞在する。古典とは、「今」の客観視を時間軸上で行う──過去を通して「今」を認識する──ことを可能にしてくれるもののように思う。
 
終わりに
 最初の問いに戻ろう。800年もの間、私の文章が読み続けられることは可能なのだろうか。時間とは恐ろしい。様々な作品が出版されている現在、10年も経たずに絶版になり消えゆく作品がどれほどあることか。おそらく、文章が生き続ける条件はたった一つ。力を持つことである。権力ではない。読みたい・残したいと思わせるだけの価値=面白さだ。その力が私の文章にあるとは到底思えない。しかし、恐ろしいまでの時間の淘汰を乗り越える力を持った作品──それが「古典」である──に触れることで、自らの文章と痛いほどに向き合えるのであれば、それは幸せな痛みなのだと思う。

           
画像(上)は、『方丈記』の最古写本である大福光寺本(現在京都国立博物館寄託)。写真は複製。
画像(下)は、太宰治『右大臣実朝』初版本、昭和18年出版。装幀は藤田嗣治(後のレオナール・フジタ)である。

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