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日本語日本文学科

2013.03.01

郷土岡山を愛した詩人永瀬清子―宮沢賢治、坪田譲治との関係をめ ぐって|山根 知子|日文エッセイ113

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第113回】2013年3月1日
郷土岡山を愛した詩人永瀬清子―宮沢賢治、坪田譲治との関係をめぐって
著者紹介
山根 知子(やまね ともこ)
近世文学担当

宮沢賢治・坪田譲治を中心に、明治・大正の小説や詩および児童文学を研究しています。

 
永瀬清子

岡山出身の女性詩人永瀬清子(1906-1995)は、岩手の自然を愛して詩や童話に描いた宮沢賢治
(1896-1933)の姿勢に共感し、自らも岡山の自然を描いた。
「ヒマラヤシーダーは円錐形を夢みているのだ。木のあるべき形をいつも具体的な自分よりさきに描
いているのだ。祈っているのだ。」(短章「心辺と身辺(続)台風で」)
永瀬清子がこう表現した木のモデルは、岡山市北区南方にある岡山地方裁判所に、かつて南側と東側
に幾十本もそびえ立っていたヒマラヤシーダーである。しかし、その木は、すでに5年ほど前に庁舎
が建て替えられる際に切り倒されており、敷地の南西にわずかに残されていたが、このエッセイ執筆中にそれも切り倒された。永瀬清子は赤磐市松木に住んでいたが、1963年に勤務を始めた岡山県庁内世界連邦事務局への通勤のため南方に転居し、バスで裁判所の前を通るとき、この樹木の光景を満喫していたのである。
私はここを通るとき、永瀬清子の見た通勤風景から、あの崇高な樹木に対する詩想が生まれたことを思い、賢治がゴッホの描く糸杉に触発されて詩に描いた樹木の詩想とつなげてみていたものだ。

永瀬清子と宮沢賢治

戦前に東京で家庭を持っていた永瀬清子は、賢治の死の翌1934年に「雨ニモマケズ手帳」が発見される場に同席していた。1945年に東京から岡山に戻った頃には、賢治の人生を追いかけるように、故郷岡山で農業と詩作を手がけている。
賢治は、水彩画「日輪と山」を描いており、山かげから輝き出る日の光が印象的だが、永瀬清子は、自ら農業をしながら見上げる熊山に同じような日輪を見て、作品を書いている。ちなみに、熊山の日輪の写真を撮り、賢治の「日輪と山」との比較をして、実際に永瀬清子が見た光景を再現したのは、本学の学部と大学院を出たゼミ生で現在赤磐市教育委員会の学芸員として永瀬清子顕彰の仕事を進めている、卒業生白根直子さんである。
 
永瀬清子と坪田譲治―びわのみ文庫から坪田譲治コレクションへ
 
2010年秋、私は、東京の児童文学作家小説家の坪田譲治(1890-1982)が東京の自宅で運営していた家庭文庫である「びわのみ文庫」を調査していて、まもなくその建物が解体されると知り、ご遺族より本学の「坪田譲治コレクション」と岡山シティミュージアムに建物内部の品々の寄贈をお願いする運びとなった。本学に寄贈された膨大な書籍を整理する段階で、永瀬清子の署名入り著書4冊が存在することに気づいた。献本の宛名は、1冊が「坪田先生へ」、他の3冊は譲治の長男宛である。

永瀬清子と譲治の関係について、まずこの署名入り詩集の背景には、譲治没後の1984年に制定された岡山市の坪田譲治文学賞において、第1回からの6年間、運営委員を永瀬清子が務めているという事実がある。
その関係から永瀬清子は着任前後に発行された著書3冊を遺族宛に進呈し、さらに譲治の死から5年経た1987年には天国の譲治に思いを寄せて「坪田先生へ」と記し81歳で地球賞を受賞した詩集『あけがたにくる人よ』を贈呈したことが推測される。それらの本が「びわのみ文庫」の蔵書印入りで文庫で読まれていたのだ。その経緯への感慨に加えて、さらに私自身も永瀬清子のあと約10年の歳月を経て運営委員に携わっているため、現在12年目の役目を担っていることに身の引き締まる思いを抱いている。
そして、私自身はこの役目を契機に、本格的に譲治研究や顕彰活動へと導かれてきた。大学では講義や学生の朗読で譲治を扱い、それらを共にした卒業生には、朗読の会「もものみ文庫」を結成して仕事をしながら活動を続けている人もあれば、このたび岡山シティミュージアムの「坪田譲治とおかやま」展(2012年12月~13年1月)を私が監修した際に、ともに「びわのみ文庫」の資料を初公開する展示を実現させた、ゼミ生の同ミュージアム学芸員万代仁美さんもいる。
 
ふるさと岡山を想う永瀬清子と坪田譲治
 
さて、同郷の永瀬清子と譲治は、岡山を深く愛して作品に盛り込んだ二人である。譲治は編者となった『少年少女風土記 ふるさとを訪ねて[Ⅱ]岡山』(1959年2月 泰光堂)にて、永瀬清子が岡山県の三大河川を詠みこんだ詩「美しい三人の姉妹」を掲載している。全て紹介したいが、長いので一部抜粋する。
「吉井川よ/おまえはゆたかな髪をもった大きな姉のようだ。/おまえは落ちついて/長い長いみちのりを/曲がりくねりながら悠々とすすむ。」「旭川のせせらぎは/知的な瞳の中の妹/二つのダムは白い城のようにそばだって、/湛えた湖のしずかさ重さ。」「高い切り崖(ぎし)にはさまれた高梁川は/気性のいさぎよい末の娘。/奇(めず)らしい石灰岩のたたずまいに/白いしぶきが虹となる。」「仲のよい岡山の三つの川は/三人のしなやかな娘/清らかな素足の姉妹。/いつも生きいきと唄っている自然のおくりもの。」
岡山の川に思い入れのある譲治が、永瀬清子のこの詩を選んで、懐かしさといとおしさを感じながら、収録した思いが偲ばれる。

画像は、(上)最近まで残っていた岡山地方裁判所のヒマラヤシーダー。(下)永瀬清子の署名入り詩集『あけがたにくる人よ』(思潮社、本学附属図書館「坪田譲治コレクション」蔵)
 

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