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日本語日本文学科

2013.06.01

『ドラえもん』と『義経記』|小野 泰央|日文エッセイ116

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第116回】2013年6月1日
【著者紹介】
小野 泰央(おの やすお)
古代の和歌と漢詩文担当

日本古典文学と中国古典文学の比較を研究対象にしています。

『ドラえもん』と『義経記』

 『ドラえもん』に出てくるしずかちゃんの姓が「源」だということを知った時に、はっとした。『ドラえもん』は、源義経を主人公とした『義経記』を踏まえているのだと。つまり、源静とは源義経の妾の名に等しく、それ以外にも人物対応が、

  のび太→義経
  ドラえもん→弁慶 
  ジャイアン→頼朝

という具合になる。ジャイアンにいじめられるのび太をドラえもんが道具で助けるという図式が、頼朝に迫害される義経を弁慶がその知力・体力・念力で助けていくという図式に合致する。そこには、ドラえもんや弁慶が解決するという痛快劇もあるが、話の始めとして、まず立場の弱い者が窮地に追い込まれるという場面がある。その立場の弱い者に同情することを義経の官名にちなんで「判官びいき」という。

 「判官びいき」という言葉は室町時代末期に出来上がっていたというが、古くから日本人の心の中には、弱者に加担する心理が十分にあった。菅原道真に纏(まつ)わる説話や『忠臣蔵』などが読み継がれてきたのも同様の心理によるであろう。それは現代人にも受け継がれている。だから、我々はいじめられているのび太がジャイアンを懲らしめる場面を見ずにはいられなくなるのである。一話読みきりの話に興味を示してもらうためには、はじめの取っ掛かりが大事だったのである。読者が否応にも引き込まれる日本人的心理を藤子不二雄は知っていて、その仕掛けの痕跡をしずかちゃんの名
前にそっと忍ばせたことが、彼の密かなる読者へのメッセージなのだろう。

 冒頭で関心を持たせるということは、コミックよりむしろチャンネル争いが行われるテレビにおいてよりその効果が発揮されたであろう。「水戸黄門」なども同様に「判官びいき」の心理が利用されていて、やはり冒頭では、若い娘や老人がその土地のやくざに苦しめられている場面が必ず出てくる。ただ「水戸黄門」などと違って、『ドラえもん』ではリベンジを果たしたのび太が失敗する場面がある。それはドラえもんの道具を我が物顔で使って、他を圧倒しているのび太への戒めでもあると言えよう。あえて定義づけるとそれは、「出る杭は打たれる」という諺に当てはまる。これも日本の社会によく見られる現象である。実は『義経記』において義経も平家を討伐したことで妬みを受け、梶原景時に「判官殿は内に野心を挟みたる御事にて候」(『義経記』巻四)と、頼朝に密告される。そのことまでも藤子不二雄が理解していたかは定かではないが、一応は、この二点で『ドラえもん』と『義経記』のストーリは見事に合致するのである。

 類似点を整理して、今両者の話型を、このように相互にふるいにかけると、逆に相違点も明確になってくる。特に『ドラえもん』に関しては、我々が生きている現代社会の内情を理解することができる。義経が陥れられるのは讒言(ざんげん)によってであるが、のび太の失敗は一面でドラえもんの道具に頼りすぎた結果でもあり、それは現代文明に対する反省を意味している。このことは近代以前の作品、少なくとも『義経記』には見られない。産業革命以後、人類はそれまでの個別的な文化とは別に、集約的で発展的な文明を築き上げてきた。それは進歩であるが、一方で自重すべきことでもある。そのことを『ドラえもん』は警告している。

 今、古典と現代の作品を比較して時間的な視点で論じたが、一方で、空間的な比較も現代の日本の位置を理解させてくれる。つまり先に「判官びいき」や「出る杭は打たれる」ということを「日本人的心理」や「日本の社会によく見られる現象」としたが、海外でもそのようなことがあるのかが次
の論点となる。その現象が中国や韓国にあって欧米になければ、「アジア的な傾向」ということになるであろうし、欧米などにもあれば、「人間社会に普遍的な現象」であるという可能性が出てくる(ただそんなことを断定することは容易ではないが)。

 漫画にしろ、古典にしろ、その作品に触れるというということは、まずは第一に無条件で楽しむということである。芸術作品に触れて心がわくわくすることは、生活上の便利さを追求することと比べものにならないほど、豊かな行為であると思う。ただその上で、あえて作品を読む意義について考え
ると、上記のごとく、他の時代、他のジャンルあるいは他の国に照らし合わせてみることで、作品の位置が浮かび上がってくることがある。特に古典作品と照らし合わせてみることは、我々がいるこの時代が明快にすることになる。こう考えると、古典は現代でも生きているし、有用でもある。
 というよりむしろ、文学作品ひとつを例にとっても、その位置づけを行うためには、時間的や空間的な比較を行わないと、深層、例えば、その背景にあるものなどは見えてこない。であるからこのように作品を比較しながら読むということは、作品そのものを読む以上に、真に「作品を読む」という、わくわくした行為なのではないだろうか。

画像は、(上)てんとう虫コミックス『ドラえもん』第6巻表紙(小学館、1974年)、(下)『義経記」巻4「義経都落の事」(人間文化研究機構国文学研究資料館所蔵『義経記』)。
無断転載を禁じます。


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