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日本語日本文学科

2013.08.01

祖母のおまじない──「二万」の歌と「あぶらんけんそわか」 ──|木下華子|日文エッセイ118

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第118回】2013年8月1日
【著者紹介】
木下 華子(きのした はなこ)
古典文学(中世)担当

平安時代後期・鎌倉・室町時代の和歌や、和歌をめぐる様々な作品・言説について研究しています。

祖母のおまじない──「二万」の歌と「あぶらんけんそわか」──

「二万」の歌
 
 今年の春、和歌の注釈原稿を作っていた時、次の歌に出会った。

 ・君が代は二万(にま)の里人数ふれて数より外に数そひにけり(正治初度百首・小侍従)

我が君の御代は、あの二万の里人を数え上げるほどに長く続くことでしょう。その「二万」という数にさらに数が加わって、気が付いたら、限りなく長久な治世になられていた。きっとそうなりますよ。
 鎌倉時代初頭の正治二年(1200)、治天の君であった後鳥羽院は、20余名の歌人たちにおのおの
百首の歌を詠んで提出するように求めた。これを「正治初度百首」と言い、後の『新古今和歌集』成
立に大きな弾みを付けた和歌の一大催事である。上記の歌は、才女として名高かった小侍従という女房の百首の最後を飾るもの。「二万(にま)」とは現岡山県倉敷市真備町の地名であり、「備中国風土記」(逸文)に、斉明天皇の頃、戦のために兵を集めたら、ある村里から屈強の兵士2万人を得、喜んだ天皇が村里を「二万の里」と命名したという伝承がある。小侍従は、この地名を用い、二万という数の多さを後鳥羽院の御代の限りない長さの喩えとして、院の治世長久を言祝(ことほ)いだのだった。この時、小侍従は80余歳、後鳥羽院は21歳。老いと余命を自覚した小侍従が青年上皇の前途洋々たる将来を祝福する、祈りの歌である。

小侍従と二条天皇
 
 ここからさかのぼること40年程前──平清盛が勢力を拡大していた1160年前後──、小侍従は二条天皇に仕える女房だった。ある時、風邪を引いた天皇は、小侍従に「歌詠みたらば治るべし」と言う。それに応えたのが次の歌である。

 ・君が代は二万の里人数そひて絶えずそなふる貢ぎ物かな(小侍従集)

我が君の御代は、あの二万の里人にさらに数が加わった限りない数の人々が、途絶えることなく
貢ぎ物を献上するというご様子です。それほどに優れた帝でいらっしゃるのだから、大丈夫!ご
病気などすぐに治ります!

二条天皇は康治二年(1143)生まれ、16歳で即位し、英明な君主だったが、永万元年(1165)23歳で早世した。この歌の頃、天皇は20歳前後、小侍従は40歳前後だろうか。当初、私は、二条天皇の「歌詠みたらば治るべし」に「お前が歌を詠んだら私の病気は治るだろう」などという大変お堅い訳を付けてしまったが、何かが違う気がする。いくら帝でも、当時の20歳前後が十分に大人だったとしても、風邪で気弱になっている折だ。そんな時、天皇にとっての小侍従とは、母ほどの年齢の、ちょっと甘えたくなる相手ではなかろうか。どんな立派な大人でも、具合が悪い時には甘えてわがままの一つも言いたくなる。800年前だろうが今だろうが、そういう気持ちは変わらないと思うのだ。

「あぶらんけんそわか」
 
 そういえば、子どもの頃、お腹が痛いの転んで打ったのという度に、私は祖母のところに駆け込んで「治して」もらっていた。祖母は痛い所に手を当てながら、「あぶらんけんそわか」と唱えてくれる。そうすると、体がふんわりとあたたかくなって、「もう大丈夫!」という気分になるのだった。両親も兄たちも家族中が祖母に「治して」もらっており、祖母はそれ以外にも何か唱えていたのだが、皆、「あぶらんけんそわか」しか覚えていない。手を当ててもらうことで患部が温まり、「痛いの痛いのとんでいけ─」ではないが、お決まりの言葉を唱えてもらうことで安心する。種明かしをすればそういうことなのだろう。でも、そんなことが可能なのは、相手との間に揺るぎのない信頼があるからだ。風邪引きの二条天皇が小侍従に言った「歌詠みたらば治るべし」の言葉は、私が祖母に「おなかがいたい(から、いつものおまじない唱えて)」と訴えていたような、信頼する人へのやわらかい甘えと心地よい安心感に支えられている気がしてならない。

 なお、「あぶらんけんそわか」とは、真言密教で大日如来に祈る時の「阿毘羅吽欠裟婆呵(あびらうんけんそわか)」という呪文が変形したもので、広く唱えられているおまじないのようだ。「阿毘羅吽欠(あびらうんけん)」は宇宙の生成要素である地水火風空を表し、「裟婆呵(そわか)」は「幸いあれ」のような願いの成就を祈る言葉。「あぶらうんけんそわか」「おんあびらうんけんそわか」など多少の違いはあるが、怪我を治す以外にも魔除けや願い事成就のおまじないとして全国に拡がったものらしい。
 
再び、「二万」の歌
 
 「歌詠みたらば治るべし」。それを、二条天皇が小侍従に「歌詠んでくれたら治るから!」と駄々をこねたと考えてみると、何だか楽しい。こういう時は、甘えられた方もうれしいような誇らしいような気分になる。だから、小侍従は小侍従で、ちょっと大げさな「二万の里人」などという言葉を使って、天皇を元気付けようとしたのだろう。気弱な折には、それくらいのほうが効き目があるものだ。

 そのやり取りから40年近く後、彼女は後鳥羽院に冒頭の「二万の里人」の歌を詠進した。後鳥羽院は21歳、あの頃の二条天皇と同じくらいの年齢である。この時、小侍従は後鳥羽院の姿に二条天皇を重ねたのではないだろうか。80余歳の小侍従は、母ではなく、祖母や曾祖母の年齢だろうけど。かつて同じ「二万の里人」で元気付けようとした二条天皇は、賢王と称えられつつも23歳で早世した。今、この歌を奉る青年君主の将来こそは、どうか輝かしく末長いものでありますように。院や天皇に対して小侍従はあくまでも臣下だが、彼女の祈りと祝福は、祖母がおまじないを唱えてくれるような柔らかいまなざしの中にあった。そういう気がするのである。

*画像(上)は、鬼ノ城から二万付近を望む。(中)は、旧山陽道・真備町二万口の交差点。
(下)は、真備町下二万 付近を流れる小田川と二万橋。

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