• Youtube
  • TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • アクセス
  • 資料請求
  • お問合せ
  • 受験生サイト
  • ENGLISH
  • 検索検索

日本語日本文学科

2013.11.01

ハックルベリー・フィンたちの冒険|新美哲彦|日文エッセイ121

Twitter

Facebook

日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第121回】2013年11月1日
【著者紹介】
新美 哲彦(にいみ あきひこ)
古典文学(平安)担当

平安・鎌倉時代に作成された物語について、江戸時代に至るまでの受容の歴史も含めて研究しています。

ハックルベリー・フィンたちの冒険

紳士的なハック
 
 ハックルベリー・フィンは何人もいる、と言ったら、君たちは笑うだろうか。
 私が小学生の時、初めて読んだ『ハックルベリー・フィンの冒険』は、以下のような書き出しだった。
『トム=ソーヤーの冒険』という本をよんだことがない人は、わたしのことを知らない。だが、知ら
なくったって、かまわない。(吉田甲子太郎訳『ハックルベリー=フィンの冒険』(上下)偕成社文
庫 1976年初版。ただし、吉田甲子太郎氏は1957年に死去しており、偕成社文庫は吉田氏訳の
『ハックルベリー・フィンの冒険:世界少年少女文学全集. 35(アメリカ編 5). 』(創元社 1956年)をもとにしているようである)
 冒頭のダグラス未亡人とのやりとりもこんな具合。
じきに、わたしはタバコがすいたくなったので、すわしてくれとたのんだ。が、後家(ごけ)さん
(ダグラス未亡人のこと)はしょうちしなかった。タバコをすうのは、よくないことで、きたならし
いから、おまえは、これからすわないようにしなければいけないといった。よく、そんなことをいう
人がいるものだ。彼らがものごとをこきおろすのは、そのことをまるっきり知らないときにかぎる。
 小学生だった私は、桜井誠さんの洒落た挿絵とも相俟って、大人びて知的なハックを思い浮かべていた。
 
書き出し部分の比較
 
 他の翻訳ではどうだろうか。書き出し部分を比較してみよう。
諸君が『トム・ソーヤーの冒険』という本を読んだことがないなら、僕のことは知らないだろう。だ
が、そんなことはどうでもいい。(村岡花子訳『ハックルベリイ・フィンの冒険』新潮文庫 1959年
初版)『トム・ソーヤーの冒険』を読んだ人でなければ、ぼくのことは知らないはずだ。でもそんなことはどうでもいい。(小島信夫訳『ハックルベリィ・フィンの冒険』河出書房新社 1993年(少年少女世界の文学 河出書房 1966初をもとにしているかと思われる))
 『トム・ソーヤーの冒険』っていう本を読んだことのねえ人だったらば、おらのことも知らねえだ
ろう。したけど、そんなこたあどうだっていいんだ。(野崎孝訳『ハックルベリー・フィンの冒険』
世界文学全集53 講談社 1976年)
 『トム・ソーヤーの冒険』を読まない人は、おれのこと知らないんだ。そんなことはどうだってい
いけど、(加島祥造訳『ハックリベリ・フィンの冒険』架空社 1995年)
きっと、あんたたちは、おれのことを知るまい。あの『トム・ソーヤーの冒険』って名の本を読んで
でもいなけりゃ、おれのことなんか知るまい。けど、そんなの、どうってことない。(大塚勇三訳
『ハックルベリー・フィンの冒険』(上下)福音館書店 1997年)
みんなは、おいらのことなんか知らねぇだろう。『トム・ソーヤーの冒険』ってえ本を読んだことが
なかったならな。だが、そんなことはどうだっていい。(大久保博訳『ハックルベリ・フィンの冒
険』角川文庫 2004年。)
 
翻訳の変化
 
 内容は同じでも、一人称に何を選択するか(「わたし」「僕」「おら」「おれ」「おいら」)、どのような文体を選択するかで、ハックおよび物語の印象がまったく変わる。近年の大久保博訳などは、「おいら」という一人称と相俟って、アニメ『トム・ソーヤーの冒険』(世界名作劇場 1980年)のハックを思い起こす人も多いかも知れない。
 時代順に並べると、野崎氏の訳以降、方言や口語を取り入れていることがわかる。
 この変化について、加島祥造氏はあとがきで、「『ハック・フィン』の訳は数多くある。しかしこの作が本当の傑作文学であることを認識してそれを和文脈で伝えようとした訳は少ない。しかし全くないわけではない。たとえば野崎孝氏の訳がある。原文がアメリカ南部の方言と口調をもったために、野崎氏は訳文のほうもわが国の方言口調にしている。田舎の少年の喋り言葉にしている。」と述べる。
 つまり、原文の雰囲気を活かすために、方言や口語を取り入れているわけで、それだけ作品の理解が深まっていることがわかる。
 
おわりに
 
 このように見ていくと、翻訳作品が、時代とともにあるいは作品の理解の深まりとともに、徐々に変化していることが知られよう。翻訳作品の本文も揺動しているのだ。そういう意味で、数十年経った翻訳作品は翻訳しなおした方がいい面も多いだろうし、日本の古典作品も、もっと現代語訳すべきであろう。
 もっとも、私のなかのハックは、今でも紳士的にしゃべる「わたし」、桜井誠さんが描いたハックだし、私のなかのトムは、中学の時に読んだ「ぼく」「ぼかぁ」でしゃべるトム(斎藤正二訳『トム・ソーヤーの冒険』角川文庫 1964年初版)なのである。
 ちなみに、現在の偕成社文庫の挿絵は、桜井誠さんの絵から、アメリカでの初版本に付されていたE・W・ケンブルの絵に差し替えられている。この絵を見ながら読めば、また違ったハックを思い描くことになるだろうし、アニメ『トム・ソーヤーの冒険』を先に見てしまった人は、そのイメージで読むことになるだろう。
 今回は挿絵には立ち入らなかったが、イメージ(挿絵などの絵画表現)とテクスト(文字表現)の関係からも、さまざまなハックの冒険が楽しめそうである。

日本語日本文学科
日本語日本文学科(ブログ)

*画像は、さまざまな『ハックルベリー・フィンの冒険』たち。

*画像は、さまざまな『ハックルベリー・フィンの冒険』たち。

一覧にもどる