• TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • Nサポ
  • manaba
  • ENGLISH
  • 検索検索

日本語日本文学科

2019.12.01

岡山の方言 ― ヤコーなど ―|星野佳之|日文エッセイ194

Twitter

Facebook

日本語日本文学科

日文エッセイ

星野 佳之 (日本語学担当)
古代語・現代語の意味・文法的分野を研究しています。
 
 私は東京出身で、岡山市に住みはじめて約20年になりますが、この間に「そんなことヤコー知らん」「納豆ヤコー食べれんわ」のような言い方を聞くことに気づきました。いわゆる標準語でいうなら、例えば「そんなことなんか知らない」「納豆なんて食べられないよ」とでもなるでしょう。私はこれまで方言調査というものはしたことがなかったのですが、この度多くの同僚達が協力してくれて、この語についてアンケート調査をすることができました。今回の調査で分かったことはいずれ論文の形にまとめたいと思っていますが、その一部をこのエッセイでご報告しようと思います。
 
  アンケートで、次のように尋ねてみました。

  「納豆ヤコー食べれんわ。」 のような言い方について、自分で言うことはありますか? 
  1 言うことがある        2 言わないが聞いたことはある
  3 言わないし聞いたこともない  4 わからない


 集計の結果は、県内出身者について「1(言うことがある)」と答えた人が67%、「2(言わないが聞いたことはある)」が30%でした。97%の県内出身者が通常接する、身近な言葉と言えます。
 一方同じ問に対して、県外出身者の回答は、「1(言うことがある)」「2(言わないが聞いたことはある)」と答えた人がそれぞれともに12%で、合計しても24%に留まります。一方で「3(言わないし聞いたこともない)」と答えた人は71%に上ります。この「県外出身者にとっては聞いたこともない」表現であるという結果が、私にはちょっとした驚きでした。
 というのは、次のような問いへの答えと対照的だからです。

 「太郎は ゲーム ばあ しょーる。」 のような言い方について、自分で言うことはありますか? 

これについての県外出身者の回答は、「1(言うことがある)」が25%、「2(言わないが聞いたことはある)」が67%、合計が92%に上ります。この例文の「ばあ」「しょーる」なども相応に“岡山的”なものです。それでも県外出身者にとって、「自分は余り言わないにしても、聞いたことはある」表現なわけです。県外出身者とはいえ岡山で生活しているのですから、こちらの方が普通のケースでしょう。
 つまりヤコーは、岡山方言の中で、とりわけ他者に知られていない方言なのです。このことの事情はよく分かりません。しかし通常仕事場などでは、よりフォーマルな場面ではより“標準語的”な言い方を、よりくだけた場では方言的な言い方をするのが自然です。岡山方言と一口に言っても、より内輪的な場面でしか使わないヤコーのような言葉もあり、県外出身者の前でも使う「ばあ」「しょーる」などのような言葉もあって、一様ではないようなのです。このことには岡山方言を話す当の県内出身者たちも、あまり気づいていないのではないかと思います。
 このヤコー以外にも、私が「これは岡山の人はあまり意識していないな」と思う“岡山的”もしくは“西日本的”言い方がいくつかあります。
 例えば「昨日の会、だれだれが来ました?」とか「道具はどれどれが要りますか」のように、不定のものを列挙させる問い方。これは『源氏物語』にも
 
  人召して「ただ今、殿上には誰々か」と問はせたまふに・・・ (宿木巻)

のように出てくる言い方なので、初めて聞いたときには「まるで平安時代のようだ」と思ったものでした。
 また、「(日程が)つんでいる」というような言い方も私には“岡山的”に聞こえます。これに一言で対応する語を、私の方言は持ちません。「(日程が)つまっている」では「(予定と予定の間に)全く隙間がない」ということになってしまいますし、どうしても言おうと思ったら分析的に、つまり言葉を色々費やして「(予定と予定の)間に余裕がない」とでも言うしかないでしょう。なかなか便利な言葉だと思います。
 こういう言葉について、日本語学では「見えない方言」といったりします。岡山の人に見えない岡山方言があるわけです。私の方言にもあるでしょう。その見えないものを見えるようにするのも、方言学の役目の一つです。
 耳慣れない言葉に接したとき、それは遠くに感じるものです。しかし「遠い」とは、自分が「今」「ここ」にいる立場から相手を眺めるに過ぎません。言葉は無意識に使うものですから普段はそれでよいのですが、しかし相手から見れば「私」もまた「遠く」にいるわけです。相手も自分も等しく相対化して全体を見渡す視座を、学問は人にもたらします。今ほど学問が必要とされている時代はないのではないか。昨今表だって飛び交うようになった言説を見るに、とみにそう思うようになりました。
 

このような質問票を用いて回答してもらいました。15歳から84歳まで76名もの方にご協力頂き、感謝に堪えません。

このような質問票を用いて回答してもらいました。15歳から84歳まで76名もの方にご協力頂き、感謝に堪えません。

一覧にもどる