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人間生活学科

2016.06.15

時のあいだ、人のあいだ|﨑川 修|人間関係学研究室

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人間生活学科

学科ダイアリー

 子どもの頃、家中の置き時計を、全部裏返しにしてしまったことがあります。きっと時間を守りなさいとか、時計を見なさい、というようなことを何度も言われて嫌になったのでしょう。子どもらしい悪戯と言えばそれまでですが・・・。

 毎日腕時計をするようになったのは中学に入ってからで、それまで時間というものは、ぴったりと自分の体に張り付いているものではなく、何となく向こうの方にあって、時々近づいて来て話しかけてきたり、急に腕を掴んで連れて行かれたりするようなものだった気がします。

 朝の時間は、いつもラジオが教えてくれていました。ニュースや交通情報、天気予報などの合間に流れるテーマ音楽から、学校に出かけるタイミングを測っていて、それで飛び出して行けば、だいたい同じ場所で同じ友人に会い、時計など見なくても遅刻せず学校にたどり着くというわけです。

 もちろん、学校には時計がありましたし、子どもたちはチャイムによって決められた時間割に押し込まれていくわけですが、学校が終われば、45分というような幅で区切られた空間から、それぞれの自分の場所へ戻っていきました。帰り道、空想に耽りながら、歩道の縁石を一つおきに踏んだり、同じ石をずっと蹴ったりしていたのは、ひょっとすると、押し付けられる「時間」からそれぞれの「リズム」の中へと還っていくための、儀式だったのかもしれません。

 夕方はもっぱらテレビでした。アニメはもちろんのこと、なぜか相撲中継にも夢中になっていました。相撲の取組は立ち合いまでの仕切りが長く、母などは夕飯の支度の合間に「そろそろ時間?」などといって顔を覗かせたりしていましたが、私にとっては輪島や高見山の勝敗よりも、その「あいだ」に静かに立ちこめ、白熱していく「時」の中に居続けることのほうが、遥かに重要でした。呼び出しや行司の一声、懸賞幕の多さにどよめく観衆、はね太鼓の音。そうした響きの中には、学校や習い事のような現実よりも、ずっと魅力的な場所があったのだと思うのです。

 そういえば、このごろは相撲中継を見ることも、なくなってしまいました。いつまでも続くようなあの長い日の暮れ方は、どこに行ってしまったのでしょう。

*  

 年を重ねるにつれ、時の過ぎ方は日に日にせわしくなるようですが、その一方で子どものころとは違う、時間の味わいを知るようにもなりました。それは、「人に出会う」ことの中で感じる、不思議な時間の感覚です。

 人は誰しも「その人」に固有の時間を生きているのだと、私は考えています。社会はそこに共通の時間軸をあてがい、私たちはそれに背丈を測られるように、自分の背中を押し付けて暮らしています。しかし、時計の下で待ち合わせるがごとくに、共通の時刻の上に並び立っても、そこで互いのあいだに通うものは、時計の針音と変わりません。誰かとほんとうの意味で「出会う」ということは、この共通の時刻ではない、「その人の時」に出会うことだ、と私は思うのです。

 メールやSNSで、すぐに返信のないことに苛立つ私たちは、無意識に相手と自分を「共通の時間軸」に縛りつけようとしています。読みやすい短文の投稿や、分かりやすいスタンプが受けるのは、そこにクエスチョンマークという距離が生まれることを恐れ、億劫に感じるからかもしれません。コミュニケーションを、出来るだけ効率の良い情報伝達だと考えるならば、それは当然のことかもしれません。

 しかし「人と出会う」ということは、必ずしもそうした意味のコミュニケーションと同じではありません。むしろ、すぐには分からない「謎」や、すぐに手の届かない「時差」があるからこそ、そこで「誰でもいい誰か」ではない「その人」と出会えるのではないでしょうか。人の魅力、というものも、そんな「分からなさ」の向こうからやってくるような気がしてなりません。

 「分からなさ」の前で踏みとどまり、その人に固有のリズムを聴き取ろうとすること。それは自分の縛られた「時」と、相手の生きる「時」との「あいだ」に佇むことだ、と言い換えることもできるでしょう。異なった脈を打つ「時のあいだ」で耳を澄ませていると、はじめは不協和としか思えなかったざわめきが、ふとした瞬間にひとつの生きた音楽のように、呼吸し始めることがあるのです。

 時計のような時刻を介さない、もうひとつの「共有される時」が、「人のあいだ」という目に見えない場所に、静かに浸透していく感覚。子どもの頃の夕暮れ時は戻ってこないけれど、自分の還っていくべき「時」はそこにあるのだろう、などと思いめぐらせています。

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