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人間生活学科

2016.09.01

宜野湾村新城(ぎのわんそんあらぐすく)の生活(4)|加藤正春|生活文化学研究室

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人間生活学科

学科ダイアリー

1945年3月末頃のことである。艦砲射撃が止んだある夜、新城や他の集落にいた兵隊たちが、一斉にトラックで、暗闇を無灯のまま首里方面に向かって走り去って行った。『新城誌』にこの経過を記した新城貞雄氏は、「米軍が上陸したら友軍〔日本軍のこと〕が海岸線で米軍を撃滅すると信じていたのに...裏切られた気持ちになった」と記している(新城貞雄氏「戦争勃発と沖縄戦」『新城誌』)。

 日本軍第32師団(球部隊)が沖縄に配備されたのは、1944年の6月から10月頃にかけてのことであった。周辺の普天間や近隣に茅葺きの兵舎ができた。そして、新城の何軒かの家々にも、兵隊たちが分宿するようになった。50人程であったという(新城加那氏「新城部落の区長として」『新城誌』)。

 その後、軍では、1944年末頃に32師団の一部の兵力が台湾に転出したために、それまでの水際迎撃作戦を維持することができなくなり、戦略持久方針に方針転換をした(『沖縄県平和祈念資料館総合案内資料』による)。主力陣地を新城よりも南側の浦添から首里に構え、米軍との地上戦闘に備える方針をとったのである。新城からの兵隊の夜間の移動は、米軍上陸間近の情勢下で、主力陣地への兵力の集中を図るものだった。

 米軍の攻撃は、1944年10月10日の「十十空襲」(那覇への初めての空襲)以後本格化した。新城は翌年3月頃まで直接の空襲被害を被ることはなかったが、1945年3月の24日か26日になると、米軍は艦砲射撃を開始して、砲弾が新城にも着弾するようになった。

 新城から西側の海を見ると、海が一面鉛色の軍艦で埋めつくされている。「その艦船からポンポンと砲弾が撃ち込まれた。砲弾が金属性の音をたててヒューッと頭上を越すときは砲弾は遠くで炸裂し、近くに落ちる時はフルフルッと不気味な音がしたかと思った瞬間、耳の鼓膜が痛いほどの大きな音を立て土砂まじりの黒煙を吹き上げて炸裂し、近くにあった物は爆風でふっとぶすさまじいものだった」(新城貞雄氏)。

 米軍艦船は夕方になると沖に引き上げ、艦砲射撃は止んだ。夜になると照明弾が絶えず打ち上げられ、「青白い光を放ち、逃げると追いかけてくるようで、木や塀にはりついて息を殺して落ちるのを待った」という(新城貞雄氏)。このような砲撃は、3月末日まで続いた。

 このような状況の下で、新城の住民たちは、米軍上陸にそなえて集落の泉井戸(シマヌカー)に避難する相談をしていた。泉井戸は集落の東側にある自然洞(ガマ)で、「入口は小さいが〔入口から下っていくと〕中は広かった。泉もありカーシリーといって横は大きな穴になっていた」(新城加那氏)。「入口の上は松の枝などで偽装して壕の奥には空気穴(アジミー)をつくって全員が窒息しないように」したという(比嘉義定氏「新城泉(シマヌカー)への避難」『新城誌』)。

図1 シマヌカーへの入り口

図1 シマヌカーへの入り口

図1に示したのはこのシマヌカーへの入口である(『新城誌』による)。カーは米軍普天間基地内に残されており、許可をとれば住民が清掃に行くことができる。写真はその時に写されたものである。図2に示したのは、沖縄県平和祈念資料館の「沖縄戦の戦闘経緯」図である。1945年4月1日の上陸作戦後、米軍は比較的短時間で沖縄本島中北部を制覇した。南部での日本軍主力との本格的な戦闘は、4月7日か8日頃からはじまった。

図2 沖縄戦の戦闘経緯図

図2 沖縄戦の戦闘経緯図

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