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人間生活学科

2017.10.13

島の光と影~邑久光明園・長島愛生園を訪ねて|﨑川 修|人間関係学研究室

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人間生活学科

学科ダイアリー

 八月の末、ある学会の仲間と、瀬戸内・長島のハンセン病関連施設をめぐる小さな旅に出かけました。夏の盛りを過ぎたとはいえ、雲一つない空からの日射しを案じながら、なかなか見えてこない海の色を車中に思い描いていると、いつの間に車は橋を渡って、島へと入って行きました。

 かつて長島は、たった30メートルほどの対岸にありながら、舟で渡るしか手だてがありませんでした。この島に初めてハンセン病患者が収容されたのが1931年。それから半世紀以上を経て、この「隔離」の海にようやく橋が架けられたのは1988年のこと。「人間回復の橋」と呼ばれているこの橋を、今や私たちはいとも簡単に車で渡ることができるのですが、そこに至る時の道のりは、長く厳しいものだったようです。

 長島は、読んで字のごとく、長く東西に連なる島です。まずは手前にある「邑久光明園」を訪れました。「長島愛生園」の7年後に落成しましたが、もともとは明治期から大阪にあった「外島保養院」が室戸台風で壊滅したために、その復興施設として建設されたという歴史を持っています。

 印象深かったのは、島の急斜面を上った小高い丘の頂上付近にある「監禁室」。帰郷を許されずに逃走しようとした者や、規則を守らなかった者が入れられたといいます。厚い壁に覆われた薄暗い内部には牢が並び、当時の人々が書き綴った「落書き」が今も残されています。小さな窓から入る光に照らされて浮かび上がる文字は、恨みつらみというよりも、ひたむきな祈りの滲むもののように思われました。

光明園の「監禁室」    壁に刻まれた文字

光明園の「監禁室」    壁に刻まれた文字

 午後からは、さらにその先の「長島愛生園」に移動して、歴史館と島内の施設等を見学しました。展示の中には、長年に渡って続いた隔離と差別の実態を伝える、克明な資料が並びます。特効薬プロミンが普及して以降も、治療や教育の中には差別や忌避の意識が色濃く残っていたようです。それらを象徴する「消毒」や「白衣」などについて記された、園内学校の生徒たちの手記の言葉が、胸に突き刺さります。

 少し重たい気持ちで戸外に出ると、容赦ない真昼の日射しの下、眼前に広がるのは、光り輝く夏の瀬戸内海。正面に小豆島、左手に遥か淡路島を望むその光景に、しばし言葉を失いました。それは、いかなる苦悩とも無縁のような、底抜けの明るさと穏やかさで、あらゆる感覚を美しく奪い去るようでした。私は心に落ちる暗い影と、その恵みのような風景のあいだで、少々戸惑いを感じつつ、日射しを避けるように木陰を選びながら、見学の列の一番後ろをついて行きました。

愛生園歴史館前の海をのぞむ    収容所内の消毒風呂

愛生園歴史館前の海をのぞむ    収容所内の消毒風呂

 島に到着した人が舟から降ろされた桟橋、監房の跡地、消毒風呂の残る古い病棟を経て、納骨堂のある丘に上ったところで、見学は終了、最後の一時間は、会議室で入所者の方のお話を聴きました。

 お話下さった広瀬哲夫さんは89歳。柔らかく、淡々とした口ぶりで、施設の歴史と現在の暮らしぶりについて語って下さったのですが、少し「意外」なことに、広瀬さんは差別や隔離といった、いわゆる「人権問題」を批判する視点だけでは、愛生園や日本のハンセン病療養の歴史を語り尽くすことはできない、というお考えを述べられました。広瀬さんは、折しも日本が戦争に向かい、破局へと突き進んだ時代の苦難の中で、そこにはハンセン病に限らない、様々な人権問題があったことを指摘されました。そして、比較して長島の人々は、恵まれた穏やかな環境の中で、生きるための糧と、生きがいを持って暮らす道を与えられてきたのではないか、とおっしゃるのです。

 ご自分はそうした環境に置かれたことを感謝している、そのように広瀬さんは穏やかに語られましたが、実際には私たちの想像を絶するような、様々な苦悩を生きてこられたはず。それでもそのようにおっしゃる表情のうちに、私はあの海からの光に似た何かを、ふと感じたのでした。



 精神科医の神谷美恵子(1914~79)は、かつて子育てや仕事に多忙な時期に、また自らも病を抱えながら、身を振り絞るように長島へと通い、島の患者たちのケアに尽した人でした。なぜ神谷さんはあれほど島に深く捉えられたのでしょうか。それは医師としての「使命感」という以上に、そこに暮らす人々の「苦悩」に寄り添う中で、彼女の魂を射抜くような「光」に出会ったからではないでしょうか。身も心も病に追いつめられ、不条理な苦しみの中で、それでも生きる意味を探し求める人たちの、いのちの輝きに。

 彼女の残したエッセイを読み返しながら、私もあの島で出会った光と影に思いをめぐらせています。それはいったい私に何を告げ、どこへと導こうとしているのでしょうか。それを探しに、今度は学生たちと一緒に長島を訪れたいと思っています。

愛生園の「収容桟橋」

愛生園の「収容桟橋」

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