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現代社会学科

2016.01.06

【報告】10/28現代社会学科第7回学術講演会「『大阪的』の作られ方―江戸時代の歴史から」

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現代社会学科

学科ダイアリー

今回は、2015年度の現代社会学科の学術講演会について報告します。今年度は、愛知学院大学から、日本近世(江戸時代)の商業史がご専門の中川すがね先生をお招きして、「『大阪的』の作られ方―江戸時代の歴史から―」と題するご講演をいただきました。豊臣時代にはじまった開発から説き起こして、江戸時代前期には、水運の発達とともに大商業都市になり、江戸中・後期には、信用取引との成立ともに、いわゆる「天下の台所」へと発展・変貌していくまでが、その最大の担い手である各種の商人たちとその活動にスポットライトをあてながら、視覚・文書資料をもとにイメージ豊かに掴み取れるような、たいへん興味深い内容でした。以下、簡単な概略にすぎませんが、その内容をお知らせしたいと思います。

写真1 ご講演の様子

写真1 ご講演の様子

 16世紀末までの大阪(坂)はいわゆる城下町でしたが、慶長3~4年(1598~99年)あたりから淀川・大和川のデルタ地帯(よしやあしが生い茂るような場所だった)の干拓工事がはじまります。その際、堀川(運河)の開削とか宅地開発といった事業を、初期特権商人と呼ばれる政商たちが請け負いました。地図をもとに、区域ごとの開発・販売といったその独特のやりかたが説明されました。その後、何本もの堀川の開削が100年以上にわたって継続的に進められ、大阪は、私たちの知るあの「水の都」となっていったのでした。

 17世紀後半になると、廻船・渡海船・川船によって日本のあらゆる地域と連結される航路が確立されるにともない、大阪は全国的商品流通の中心地へと大発展します。堀川沿いには船宿や国問屋〔くにといや〕(地方ごとの物産を扱う問屋)が並び立ち、「人云、天下ノ貨、七分ハ浪華ニアリ、浪華ノ貨、七分ハ船中ニアリト(人の言うところでは、天下の財貨の7割は浪速にあり、その浪速の財貨の7割は船中にある)」と評されるまでになります。このころの大阪の水運都市としての繁栄ぶりを示す恰好の資料として、『摂津名所図会』を中川先生は活用されました。たとえば、天満青物市場の船着き場のちょうど前にある問屋の前の道で開かれた紀州産みかんのせり売りの様子を示した絵などはその良い例でした。

 この時期には、問屋はもちろん、仲買人、金融商など、初期の政商とは違ったタイプの商人たちが大勢現れることになります。とくに金融面での発展には特筆すべきものがあり、一例として、問屋が廻船主や荷主に対して、荷揚げして商品が売却される前に代金を貸し付ける「前貸金融」が盛んになっていきます。つまり、最初にお金を貸して、商品が売れた後に利子つきで返してもらう、というシステムです。これは、問屋ができるだけ多くの顧客を獲得するための方法でもあったわけですが、それだけ取引の競争が激しくなっていたということでもあります。同時に、預金を担保とした「振手形」(これを用いて支払いができて、受け取った側は、取引のある両替商と関係のある金融商人からお金を回収できる...つまり、一種の銀行業です)の発行、大名に対する貸し付けも発展します。こうした金融経済の発展は、世界史的にみても、目を見張るものがあるとの印象を持ちました。

しかし、18世紀になると、西廻り航路で運ばれてくる商品を長州藩が下関で「途中買」したり、大名による踏み倒しなどの影響により、大阪の商業は低成長の段階に入ります。ところが、大阪の商人たちのしたたかなところは、これでけっして活動が停滞しなかったところです。たとえば問屋は、今でいう先物取引の仲介のようなことをはじめますし、仲間組織を結成したりして、むしろ取引規模・金融システムをさらに拡張しようと努めたというのです。中川先生がとくに強調されたのは、結成された両替仲間の活動によって、先ほど述べた振手形が多くの社会層に大々的に広まったことです。すなわち、中下層の町人たちまでもが両替商の顧客に取り込まれて、少額の金銭支払いにも振手形が発行・使用されるようになったのでした。これは、私たちが普段行っているカード利用を彷彿とさせる光景です。私たちは、カードを使って支払い、あとから口座から引き落としがなされるというこの便利なシステムを現代人の特権のように考えがちですが、意外とそうでもないことが分かります。

 それはともかく、こうして、信用をもとに巨額のマネーが取引される商業空間が、近世の日本に出現したのでした。中川先生によると、こうした信用社会の成立は、町人世界の「見知り」の関係に立脚してはじめて成立したものだということです。つまり、お互いを仲間として認知し合うという共同性(「徒党イイ合セ(仲間同士の申し合わせ)」ということが言われたそうです)の意識があってはじめて可能だったというわけです。先ほど私は、この時代の振手形が現代社会のカード利用と同列であるかのように述べましたが、現代の資本主義がむしろ「見知らぬ」者どうしの信用のもとに無際限に展開している(たとえば、カードを利用する人は、世界中どこでも、利用できると言われれば、それだけでカードを使う)のと比べてみると、両者の差異にも注目しなくてはならないことに気づきます。

写真3 ご講演の様子

写真3 ご講演の様子

最後に、こうした「大阪的な」資本主義の発展は、大阪町人の気風(「人気〔じんき〕」)とも関連しているのではないか、という問いかけが中川先生からなされました。大阪の人たちは社会的正義と助け合いの精神に富んでいる、ということがよく言われていたといいます。これは、たとえば「お上」からは距離をおいて、義侠心を重んじるといったことです。つまり、彼らにとっての「信用」というのは、単にお金の貸し借りだけのことではなく、もっと広く社会的な仲間意識を生み出すような人間関係と解き放しがたく結びついたものだった、そしてそれは、現代の大阪人の義理人情を重んじる気風にもある程度引き継がれているのではないか、ということを、結論として示唆されたのでした。

 以上は、一聴講者の立場から、ヨーロッパ史を専攻する学科の一教員がまとめたものですので、所々、個人的な感想も入り混じってはおりますが、講演の全体像が分かるような報告を心がけました。現代社会学科では、歴史はもとより、現代社会の経済的な側面に関心を持つ人たちにも入学してもらいたいと考えていることもあり、今回は、読みごたえのある「硬派な」ブログにした次第です。

 最後になりますが、この場を借りまして、ご多忙中にもかからず、講演を引き受けてくださった中川すがね先生、ならびに当日ご参加くださいました方々に深く御礼申し上げます。(文・轟木広太郎)

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