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現代社会学科

2016.01.23

乾隆帝生母の謎:学科の紹介【17】

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現代社会学科

授業・研究室

乾隆帝生母の謎

鈴木 真 准教授
  歴史には,時の権力者が編纂・公認した「正史」以外の,民間などで語られる「稗史」「野史」があります。たいていは出どころのあやしい噂話ですが,「お話」としては面白く,また当時の人々が何を考えていたのかを探る手がかりにもなるでしょう。中国の清朝(1636~1912)にも,そうしたお話がいくつかあります。

 清朝を建てた満洲人は,圧倒的大多数の漢人の統治に成功し,多民族から構成される大帝国を築き上げました。とくに第六代皇帝乾隆帝(けんりゅうてい,在位1735~1795)の時代は,中国史上でも屈指の繁栄期であったとされます。その乾隆帝が実は漢人の血を引いていた,とするのがいわゆる「乾隆漢人」説です。清朝の皇帝ですから父系は当然,満洲人のアイシン=ギョロ(愛新覚羅)氏の血筋であるはずで,もし乾隆帝が漢人の子であるのなら,それは王朝統治の根幹を揺るがす大スキャンダルです。

写真1 乾隆帝生誕の場所とされる北京の雍和宮(当時は雍親王府)の扁額 (多民族王朝の清朝では,満洲文字や漢字以外にも複数の公用文字が存在した)

写真1 乾隆帝生誕の場所とされる北京の雍和宮(当時は雍親王府)の扁額 (多民族王朝の清朝では,満洲文字や漢字以外にも複数の公用文字が存在した)

 この手のお話で最も有名なのは,乾隆帝を浙江省杭州府海寧の名門・陳氏(漢人)の子とする説です。乾隆帝は在位中,六度にわたって都の北京から江南地方に巡幸しました(南巡)。その目的は,反清・反満洲人の気風の強い江南の漢人らの懐柔であるとされます。しかしそれは建前で,実は出生の秘密を知った乾隆帝が,生みの親の陳氏に会いに行ったというのです(この俗説を採用した小説や映像作品が複数あります)。

 清朝のあらゆる「正史」では,乾隆帝の父親は雍正帝(ようせいてい,在位1722~1735)で,母親も満洲氏族,それも開国の大功臣である鈕祜祿(ニオフル)氏の流れをくむ女性であるとされます。それにもかかわらず「乾隆漢人」説が流布したのはなぜでしょうか。一説によると,清末~中華民国期に漢人が復権を果たしてから,「清朝の最盛期を築いた偉大な乾隆帝は,漢人であるに違いない」という一種の願望がひろがったことが,その背景にあったともいわれます。

 

写真2 乾隆帝が南巡に際して訪れた西湖(浙江省杭州)

写真2 乾隆帝が南巡に際して訪れた西湖(浙江省杭州)

 ただ,乾隆帝の父系ではなく母系については,本当に満洲人の名門・鈕祜祿氏であったのか,疑問が残ります。というのは,乾隆年間にある文人が,自著に乾隆帝の生母を「銭氏」と記しているからです(ちなみに銭氏といえば,浙江省から多くの著名漢人が出ています)。しかしながらこの書物には初歩的な誤解・誤記が散見することもあり,「銭氏」の記載も単純な誤りであろうと,これまではあまり重視されませんでした。

 ところが近年,清朝時代の史料整理が進められる過程で,ある発見がありました。雍正帝の即位直後に作成された文書に,当時はまだ一皇子にすぎなかった乾隆帝の生母を指して,「鈕祜祿氏」ではなく確かに「銭氏」と記した史料が確認されたのです。伝聞や後世のうわさ話ではなく,当時の信頼できる史料から,乾隆帝の生母が漢人の血筋であるかもしれない(少なくとも鈕祜祿氏ではない)可能性が浮上したといえます。

 火のない所に煙は立たないともいいます。いまは荒唐無稽な「お話」として扱われている珍説・妄説にも,もしかするといくらかの真実が含まれているのかもしれません。



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