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現代社会学科

2016.06.24

五七桐金瓦発見!!博物館配水管工事で:学科の紹介【22】

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現代社会学科

授業・研究室

五七桐金瓦発見_博物館配水管工事で
―7月24日『読売新聞』朝刊―


藤實久美子教授

 「五七桐(ごしちのきり)」は紋所(紋章)の一つです。桐は「鳳凰(ほうおう)の止まる木」といわれ神聖視されています。「五七」では花序(かじょ)につく花の数は5-7-5です。写真1は日本国内閣総理大臣の紋所「五七桐」(首相官邸HPより)です。

写真1 内閣総理大臣紋所

写真1 内閣総理大臣紋所

「五七桐」は格式が高く、かつ金箔を施した瓦であったために、工事関係者を驚かせました。
 なぜ地中1.5m~1.8mから金瓦は出土したのか。
金瓦をのせた屋敷の主人は誰だったのか。
 新聞紙上で議論が交わされました。
 
 この議論を紹介する前に、水道の下水管工事があった「博物館」について記しておきましょう。「博物館」は内務省博物館(東京国立博物館の前身)です。上野公園に移転する明治14年まで博物館は内山下町(うちやましたちょう)にありました。内山下町は現在の東京都千代田区内幸町一丁目、帝国ホテル、みずほ銀行本店などがある一帯です(東京国立博物館ホームページ参照)。

 金瓦発見は、現代のお話ではなく、明治10年(1877)のお話しでした。

 『読売新聞』紙上(写真2は明治7年発刊は『読売新聞』創刊号 読売新聞社HPより)での議論は9月まで続きました。結論は薩摩藩島津家が出所らしい。

写真2 読売新聞創刊号 明治7年

写真2 読売新聞創刊号 明治7年

新聞紙上で議論が展開されたことも去ることながら、議論の過程に興味をおぼえました。以下、『読売新聞』8月22日朝刊の記事の一部を引用します。

「山下御門内の博物館で五七の桐の紋が付た瓦を掘出したことについて...不審の処があります。...此絵図 〈寛永江戸図〉は...天保四年五月旧幕府の屋代太郎弘賢先生が誤りを補ひ考へ...虫が喰って越前とばかり 有ったのを弘賢翁が独断にて松平と書き入れて再板されたものゆゑ決して松平越前の屋敷ではなく本多越前の屋敷に相違ありません。」

写真3 「武州豊島郡江戸(庄)図」(郡分)国立国会図書館所蔵

写真3 「武州豊島郡江戸(庄)図」(郡分)国立国会図書館所蔵

「寛永江戸図」に「松平越前」とあるものは屋代弘賢(1758-1841)の作、「○○越前」または「本多越前」とあるなら屋代以前の地図であると、投稿者は言うのです。

 写真3は国立国会図書館所蔵の「武州豊島郡江戸(庄)図」の一部です。「越前」の上に「松平」と読めます。

 では投稿した人物は誰だったのでしょうか。
 投稿者名は紙面に「原宿 多湖実成」とあります。多湖実成の蔵書は国立国会図書館などに所蔵され、蔵書印「橘実成蔵」から国学者と推定されます。したがって、屋代の学文ネットワーク圏内にいた人からの伝聞と考えて問題ないでしょう。また天保4年(1833)に屋代が「寛永江戸図」を複製出版したことはすでに知られており、その点で多湖の証言は信頼できます。
 しかしながら、「「松平越前」と屋代は独断で加筆した」の部分について、多湖の証言をそのまま鵜呑みにして良いか。
 「寛永江戸図」の研究は専門的な議論が盛んなので(飯田竜一・表元昭『江戸図の歴史』築地書館、1988年、黒田日出男『江戸名所図屏風を読む』角川書店、2014年ほか)、一つの証言によって早急に結論を出すことはできません。
一方、本多越前守は横須賀藩主・利長のことで、利長は寛永の次の年号・正保2年(1646)に家を継ぎ、明暦の大火直後(1657年5月)に山下門内に屋敷を与えられています。そのため、これでは時期がずれてしまうので、「寛永江戸図」の「松平」説を修正できません。

 以上は、本学図書館が契約している検索エンジンの一つ、『読売新聞』ヨミダス歴史館をながめていて考えたことです。少し時間があるときにヨミダス歴史館を�T散策する″と�T想像の翼"を広げることができるかもしれません。

 結論を急がない「暫定解」、暫定的な答えの発見。本ブログがその一例になれば幸いです。

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