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日本語日本文学科

2015.01.01

「きえ残る骨もうごくや郭公」考|藤川 玲満|日文エッセイ135

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第135回】 2015年1月1日
【著者紹介】
藤川 玲満(ふじかわ れまん)
近世文学担当

近世中期の文学と出版について研究しています。

 これまでに私のエッセイで取り上げてきました、近世中期の作者秋里籬島(あきさとりとう)には、その自伝を記した『秋里家譜』(国文学研究資料館蔵)という資料があります(注1)。この家譜には、末尾に自詠の和歌1首と発句2句が掲げられているのですが、そのうち発句の1句は次のものです。

河内国千早城にて
きえ残る骨もうごくや郭公(ほととぎす)

千早城とは、楠木正成が鎌倉時代末の元弘2年(1332)に築き、正成が鎌倉幕府軍に抗して立てこもり、数々の奇策をもって防戦、遂には幕府軍を撤退させた籠城戦で知られる場所です。この句は、享和元年(1801)刊、籬島による『河内名所図会』(注2)にも収載されていますが、こちらでは前書を「平石(ひらいは)の城跡にて」としています。平石の城跡も、南朝軍の兵の籠城した事跡が伝えられている場所です。そして『河内名所図会』では、城跡の記事に続けて平石村の「戦死塚」を取り上げ、「雨後には今に土中より白骨多く出る」と述べています。この記述は先の句に詠まれたところと通じるように思われます。このように、この句には、籠城・合戦という主題が見られます。以下、この点から少し籬島の周辺を眺めてみたいと思います。

 前述の『秋里家譜』の自伝のなかには、先祖が因幡国の秋里城城主であることと、自身がその生涯のうちに浄土真宗に帰依したことが述べられています。まず、前者に関して、秋里城の秋里氏は、『因幡志』(注3)に、秀吉の鳥取城攻め(天正9年(1581))の際、鳥取城に籠もったと記されています。しかしながら、籬島自身がこの件に言及したものは見当たらず、その意識については確かめることが出来ません。

 後者に関して、浄土真宗史には、石山合戦があります。元亀元年(1570)から天正8年(1580)における、織田信長と浄土真宗石山本願寺との戦いです。そして、籬島には、この戦いを題材にした安永5年(1776)刊の著作『信長記拾遺(しんちょうきしゅうい)』(注4)(10巻10冊)があります。小説で、同じ題材の実録を種本としながら、これに独自の改変・虚構を加えて著されたものです。ごく簡単に筋を追うと、次のようになります。

 信長は築城のためとして本願寺の寺地を望むが、拒まれたことから本願寺門徒征伐を決める。本願寺は顕如上人の信頼が厚く兵法に通じた紀州の門徒鈴木重幸を軍師として織田勢に抗する。籠城と度重なる攻防の末、終には織田勢の重臣羽柴秀吉と重幸が対峙する。和解ののち本願寺は大坂を退去、織田勢はなおも本願寺勢を攻めるが信長の死により撤退する。秀吉の天下となり、本願寺は京都に御堂を建立する。

 この始終が、両軍の攻防を中心に、来歴や背景とあわせて描かれます。そして、種本からの改変や虚構等、手を加えていく過程には、相当に力を注いで工夫した様子が認められます(注5)。この作品は、自身が深く関わっていく宗派の題材、というところから籬島が籠城・合戦の主題に向き合ったものと言えましょう。

「きえ残る」の句を端緒に、籠城・合戦の主題、籬島の伝記の周辺、と思い巡らしてみました。そして、あらためてこの句を見ましたとき、俳諧を修めた経歴を持つ籬島が、数多の自句のうちでこれを『秋里家譜』に収載した真意がどのようなことか気になります。家譜の執筆と詠句の時期が近かったというようなことかもしれませんが、『信長記拾遺』のほかに軍記の図会化作品も著している、籬島の関心の在りかとも繋がるところがあるように思われるのです。


1 『秋里家譜』から明らかになる籬島の伝記に関しては、拙著『秋里籬島と近世中後期の上方出版界』(2014年11月、勉誠出版)に検討した。
2 引用は国文学研究資料館蔵本による。
3 国立国会図書館蔵本による。寛政7年(1795)成、安陪惟親恭庵編。
4 筆者所持本による(図版もこれを使用した)。
5 『信長記拾遺』の形成については、注1前掲拙著に述べた。
 
※ 画像は、『信長記拾遺』巻第三「諸将籠城事」冒頭。
画像の無断転載を禁じます。

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