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日本語日本文学科

2015.09.01

名作小説を批判的に読む|綾目 広治|日文エッセイ143

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第143回】 2015年9月1日
【著者紹介】
綾目 広治(あやめ ひろはる)
近代文学担当

昭和~現代の文学を、歴史、社会、思想などの幅広い視野から読み解きます。
 
名作小説を批判的に読む
    
〈川端康成『雪国』のケアレスミス〉
 大文豪が書いた、名作と言われている小説にも、不可解なところや首を傾(かし)げざるを得ないところが意外にあったりします。たとえば、ノーベル文学賞を受賞した川端康成の代表作の一つである『雪国』もそういう小説の一つです。『雪国』ではヒロインの駒子(こまこ)の生まれは、この雪国だと語られています。すなわち山間(やまあい)の町です。ところが他の箇所では、本人は「私の生まれは港なの。」と言っているのです。どちらが本当なのか、はっきりしません。
 また『雪国』では、主人公の島村という男性が雪国を訪れるのですが、作中の叙述を丁寧(ていねい)に調べると、彼は一年数ヶ月の間に三回ほど訪れていることがわかります。そうであるのに、小説では駒子は「あんたが来はじめてからだって、もう三年だわ。」と言い、島村も「その三年足らずの間に三度来たが、......」と語っています。これは明らかにミスです。『雪国』は各国で翻訳され、世界の多くの人々に読まれた小説ですが、そういう有名作でもケアレスミスはあるのだということを、知って下さい。
 もっとも、ここで私は作品の揚(あ)げ足取りや粗(あら)探しをしているのではありません。そうではなく、そういう小説のケアレスミスの問題などは、実はその小説の文学作品としての本質と大きく関わっている、ということを言いたいのです。普通、小説を鑑賞(かんしょう)する場合、今述べましたような、事実関係に矛盾や混乱があると、読者はそれが気になって先を読み進めることができなくなってしまいます。
とりわけ、注意深い読者なら余計(よけい)にそうでしょう。しかし、そういう読者でさえも、『雪国』の場合はそれらの問題をほとんど気にすることなく読み進めるようです。
 ということは、この『雪国』という小説は、事実関係や物語の筋の展開など、実はどうでもよく、それよりも場面が醸(かも)し出す情緒を読者に味わわせることに主眼があるということです。
 このように、小説の中の不可解なところや、首を傾げてしまうところに目を向けることで、その小説の持っている本質的問題に突き当たる有名作の例としては他には、たとえば多くの高校国語教科書に採用されている、夏目漱石の『こゝろ』を挙げることができます。

〈夏目漱石『こゝろ』のケアレスミスと不可解なところ〉
 まず、ケアレスミスから指摘しますと、〈上六〉節では「先生」は、「K」の墓には「妻」を連れて行ったことはないと言いながら、〈下五十一〉節では以前に「妻」と「二人連れたって」「K」の墓参りをしたと語られています。また、「私」は「先生」からもらった便りは二通だけだと語っています。一通は「先生」が「私」に金の工面をしてくれたことについての「私」の礼状に対する「先生」からの返事であり、もう一通は例の「遺書」です。しかし、よく読むと他にも旅先の「先生」から便りを二通もらっています。計四通便りをもらっているのです。
 これらは、文豪漱石にもあったケアレスミスと言えましょう。ケアレスミスは他にもありますが、こういうミスについては、取り立てて問題にする必要はないでしょう。文豪漱石にもそういう間違いがあったのだと思うと、何となく漱石が身近に感じられます。
 さて、問題は小説の本質に関わってくるような不可解箇所などです。たとえば、「先生」の「妻」、すなわち昔「お嬢さん」であった静(しず)は、「聡明な女性」だとされていますが、「K」の自殺とその後の「先生」の変貌(へんぼう)には、自分の存在が何らかの形で関わっているということをどうして考えないのでしょうか? 静はあまりに鈍感です。そういう女性なのに、「K」も「先生」も静をほとんど崇めるようにして恋心を募らせていました。これは当時の旧制大学生などに特有の、女性を崇高なものに祭り上げてそれに恋をするという、いささか奇妙な恋愛ではないでしょうか? 
 「先生」もおかしいです。自らのエゴイズムが「K」を死なせたという、深甚(しんじん)な反省をしたはずの「先生」が、今度は自らの苦しみのために、身寄りのない「妻」を残して一人勝手に自殺します。これこそ、自分の苦悩にしか目を向けない、最大級のエゴイズムではないでしょうか。「K」も不可思議な人です。彼が行っていた、「道」のための「精進」とは、一体何なのでしょうか? その内実はよくわからないものです。
 こういうふうに見てきますと、おそらく日本の近代文学史上一番の有名作とも言える『こゝろ』は、実は多くのミスや不可解なところのあるという意味で問題作と言えます。それらを追究していくと、作者漱石さえ十分には気付いていなかった、『こゝろ』の深層のテーマに行き当たります。それは何でしょうか?
 本学科の近代文学の講義では、一歩踏み込んで作品を批判的に読むことで、表面的な読解では見えなかった、より深いテーマについて考えてみようとしています。本学科で『こゝろ』の深層のテーマについて考えてみませんか。

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