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日本語日本文学科

2016.09.01

畳字と畳点|佐野 榮輝|日文エッセイ155

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日本語日本文学科

日文エッセイ

佐野 榮輝 (書道担当)
書の実技・理論を通して多様な文字表現を追求しています。
 
 「子子孫孫」のように同じ文字を二字重ねることを「畳字」あるいは「重字」といいます。現代では「子々孫々」とも標記されます。古くは中国・西周(BC1050 ごろ~ BC770)の金文という青銅器に鋳造した篆書に「子=孫=」と=の二横画を少し短めに記されたものが見られます。「=」がすなわち畳点で、後には「〻」〔二の字点〕や「ヽ」〔一の字点〕などもあらわれ、仮名にも用いられました。
 なお、「々」は国字で、繰り返し符号。〔同の字点〕や〔ノマ点〕などと呼ばれ、すべての上字に付して使えるオールマイティな符号です。「々」字の由来については、漢文で使われる「〻」が日本に入ってきて変化したものとも、漢字「同」の異体字「仝」から変化したものともいわれるが、不詳。「仝」は清代の『康煕字典』は、宋代の『広韻』を引いて「同の古文。道書に出づ」といい、明の『正字通』を引いて「道書、同は仝に作る」といい、道教で使用された文字という。
 篆刻は「方寸の世界に宇宙を宿す」といわれ、一寸四方ほどの狭い印面に文字を入れ込むために、畳字の場合には、上記の「子子孫孫」「子=孫=」の二通りの表現が可能です。さらに同じ偏旁や同一の字形が連なる場合には、それさえも畳点を用いて代用させます。

 明末清初(ほぼ17 世紀前後)には「努力加餐飯」【図1】という印文がよく刻されたようです。「努力して餐飯を加えよ」、どうぞつとめておからだおいといください。妻から遠隔地の夫へ宛てた手紙の体裁をとり、『文選』古詩十九首其一の末句です。
 明の徐上達という人が『印法参同』という印学書で、この「努力加餐飯」について記しているので下に引用します。どのようにして畳点を用いているかが分かると思うので、図と見比べながら読んでみてください。

……「努力加餐飯」印は「加」字力に従ひ、上に已に「力」字有れば、下は但に二小画を左に著して「力」に代へ、右は「口」を以て繋(つな)ぎ「加」に作り、「飯」字は食に従ひ、上に已に「餐」の下に「食」字有り、下は但に二小画を左に著し「食」に代へ、右は「反」を以て繋がり「飯」に作る。此れ皆な本づく所有るなり。今、重字に於て、陰陽文の別を用ゐる者、或ひは筆法を変ずる有り、但に両様の篆体を用ひるべからざるのみ。(原漢文)

 【図1】 明・金一甫刻「努力加餐飯」(2.9×2.5cm)

 【図1】 明・金一甫刻「努力加餐飯」(2.9×2.5cm)

 後半の三行は、重字は陰陽(朱文・白文)に分かつものや、篆書を別々にするものもあるが、二様の篆書の体で作ってはいけないことをいう。
 清・徐三庚の刻印から二顆、畳点を使用した例を見てみよう。
 【図2】は「周公不師孔子。孔子亦不師周公」(周公は孔子を師とせず。孔子も亦周公を師とせず。)は、上から始まり、左回りの「回文」で、「孔子」の「子」は「孔」の左辺を借りて「孔=」に作り、さらに、次の「孔子」は前の「孔子」を借りてただ「==」に作り、句頭と句末の「周公」に畳点が付され、回文にした意図が分かります。

【図2】 清・徐三庚刻「周公不師孔子。孔子亦不師周公」(2.9×2.8cm)

【図2】 清・徐三庚刻「周公不師孔子。孔子亦不師周公」(2.9×2.8cm)

 【図3】は(華は長〔とこしえ〕に好く、月は長に員〔円の本字圓・まどか〕に。人は長に寿〔いのちなが〕し)は、長字が三度でてくるので、二行目の「長」は三行目の「長」を借りてただ「=」とのみして、九字印を三字×三行とする平板さを脱しています。
 これら三例は、特殊な畳点の用い方ですが、どういう印文によるかで効果的な用い方もできるでしょう、印を読む参考にと思って取り上げてみました。

 【図3】 清・徐三庚刻「華長好。月長員。人長寿」(2.2×2.1cm)

 【図3】 清・徐三庚刻「華長好。月長員。人長寿」(2.2×2.1cm)

 畳字・畳点に関する「印林の佳話」を一つ紹介しておきます。
 終生市井の一碩学として近世史や書誌学の考究にその生涯を捧げた、三村竹清(明治九〔1876〕――昭和二八〔1953〕年)が、『平=凡=四十印』(封面自題)という、「平凡平凡」四字句を、三十七印は篆刻を嗜む人に依頼し、もう一顆は竹清の篆刻の師であった河井荃廬の同文を摹刻し【図4】、掉尾(ちょうび・とうび)の二顆は自身の刻で輯され、三十七人中、呉昌碩【図5】・徐新周など華人が十一名含まれています。刻成年月、人物に関する記載、刻料や印材の種類などを詳述している、興味深い印譜です。ただし印の出来は玉石混淆(こんこう)といえるでしょう。昭和四十〔1965〕年に木耳社から印刷発行されましたが、現在ではほとんど入手不可能と想われます。

【図4】三村竹清摹河井荃廬「平=凡=」印(1.9×0.8cm)

【図4】三村竹清摹河井荃廬「平=凡=」印(1.9×0.8cm)

【図5】呉昌碩刻「平=凡=」印(2.5×2.5cm)

【図5】呉昌碩刻「平=凡=」印(2.5×2.5cm)

 竹清がどのような意図で印文「平々凡々」(書名に拠る)という畳字・畳点どちらも表現可能な二者択一を求め、刻者の自由に任せた課題を設定したのかは何も書かれておりません。刻者の技量を試して依頼をしたものではないかと勘ぐりたくなりますが、刻する側はそのような事情はつゆも知らなかったでしょうから、自由に刻すことができたのだろうし、竹清という人は江戸っ子の茶目っ気を、自腹で体現したのであろうかと想います。
 竹清の荃廬印の摹刻は、原印と比べてもなかなか精密で、篆刻の技量の確かさが窺われる作品です。
荃廬印の刻年について、西川寧はこの印は歌人で書家として名高い阪正臣の用印三十顆ほどの一つで、そのうちの「正臣」連珠印に明治三十七(1904)年甲辰の款があり、荃廬三十四。それらは、この前後の作という(『河井荃廬の篆刻』〔1978 年・二玄社・p.28〕)。
 この指摘は大変重要で、竹清がこの印影を何時見たのかは措いて、『平=凡=四十印』譜所収の最も早い作品は岡本椿處の明治四十(1907)年五月なので、この頃をきっかけととして企図したものかとも想像されます。
 自身の姓名・雅号・館閣・引首印などは大小あわせて複数顆所持する書家・画家なども多いでしょうが、竹清の印はほとんど実用に適さない「平々凡々」という、非実用的な「閑章」。あえてその依頼をかさねる、この発想を驚異としたく、「印林の佳話」として紹介してみました。
(2019 年12 月20 日再稿)
 

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