• TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • Nサポ
  • manaba
  • ENGLISH
  • 検索検索

日本語日本文学科

2016.10.01

我拝師山を登る西行|木下 華子|日文エッセイ156

Twitter

Facebook

日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第156回】 2016年10月1日
【著者紹介】
木下 華子(きのした はなこ)
古典文学(中世)担当
平安時代後期・鎌倉・室町時代の和歌や、和歌をめぐる様々な作品・言説について研究していま
す。

我拝師山を登る西行
我拝師山出釈迦寺(がはいしさんしゅっしゃかじ) 香川県善通寺市に、出釈迦寺というお寺がある。山号は我拝師山求聞持院(がはいしさんぐもんじいん)、真言宗の開祖・弘法大師空海(774~835)に関連する伝承を持つ寺院だ。四国霊場八十八ヶ所の第73番札所で、香色山・筆ノ山・我拝師山・中山・火打山と5つの独立峰が連なる五岳山のうち、最も高い我拝師山(標高481.2m)の北麓に位置している。

 今年の3月下旬、大学院の先輩を誘って、出釈迦寺を訪れた。目的は、かつてこの地を訪れた僧侶歌人・西行(1118~1190)の足跡をたどること。出釈迦寺本堂から我拝師山を登ると、捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と言われる絶壁のごとき岩場、空海ゆかりの修行場がある。西行の家集『山家集』(1370・1371番歌)を見ると、1160年代の後半、彼が讃岐を訪れ、我拝師山の修行場に来たことがわかるのである。

空海と西行
 空海は、讃岐国の出身である。出釈迦寺から少し東に位置する善通寺が、平安時代以降、空海の誕生地と伝えられてきた。唐から密教をもたらして真言宗を開き、高野山に金剛峯寺を建立した空海が日本仏教にもたらした功績と影響は、計り知れないものがある。

 空海からおよそ3世紀を隔てた平安末期の僧侶・西行は、俗名を佐藤義清(のりきよ)と言い、鳥羽院に使える武士だったが、23歳の折、突如として出家した。中年頃には高野山に住んでおり、真言宗の行者だったと思われる。だからだろう、西行は仁安2年(1167)50歳または同3年(1168)51歳の10月、空海ゆかりの讃岐の地へ修行の旅に赴いた。現在の児島半島、当時は瀬戸内海に浮かぶ島だった児島に渡り、南岸の日比・渋川(現玉野市)周辺で風を待って四国へ渡る。最初に白峯にある崇徳院の墓に参り、その後、善通寺周辺に庵を結んで滞在したようだ。その間のどこかで、我拝師山を訪れているのである。
      
西行の道筋をたどる

まず、現在の出釈迦寺の本堂から我拝師山山頂に向かう途中にある奥の院行場・根本御堂へ向かう。道が整備された今でも、けっこうな急坂を30~40分ほど登る感じだ。西行の頃は相当な険しさだったろう。『山家集』によると、ここは「曼荼羅寺の行道所」と呼ばれており(曼荼羅寺は出釈迦寺の北に位置する寺院)、そこへ登るのは「世の大事にて手を立てたる」ようだったらしい。手のひらを立てたような険峻な山道を大変な思いで登ったということだ。そこには、高さ3mほどに土を盛った壇が築かれており、空海が毎日登って修行したという言い伝えがあった。もちろん、西行も登るのだが、「登るほどの危ふさ」ときたら大変なものであり、「構えて這ひまはり付きて」(這うようにしてしっかりしがみついて)登ったと言う。

 「行道所」の上は、現在の捨身ヶ嶽である。そもそも、我拝師山には、修行中の空海のもとに釈迦如来が現れたという伝承があり、西行も「大師の御師に逢ひまゐらさせおはしましたる峰」(弘法大師が御師である釈迦如来にお逢いになった峰)としている。ここがまた一大事であり、西行は「構へてかきつき登」った(しっかりしがみついて登った)らしい。

 私も登ってみた。写真のように、けっこうな岩場である。手だけでは無理なので、岩に足をかけ、足の力で体全体を押し上げるようにして登らねばならない。下りは前向きでは危ないから、後ろ向きになる。現在は鎖がわたされているので、それをつたいながらそろそろと下りていく感じだ。体調を整え、動きやすい服装とちゃんとした靴を準備してのぞまなければ危険、そういう場所である。

身体の状況を重ねてみる
 それにしても、私はどうしてこんなことをするのだろう。別に、登山の趣味はない。ただ、西行と同じことをしてみたかったのである。そうすれば、西行がもう少しわかるかもしれない、『山家集』がもう少し読み解けるかもしれない、そう考えた故であった。

 それで何がわかったのかと問われると説明しづらいのだが、一つ理解したことがある。当時、我拝師山登山は、環境や道具が整った現在に較べて、遥かに困難だったはずだ。おそらく、滑落死の危険と隣り合わせの修行だったろう。それでも、どうして登るのか。困難な修行によって宗教的達成を目指すという目的はもちろんだが、西行も空海と同じ体験を志したのではないか。『山家集』のこの箇所には、何度も「大師」(=空海)が出てくる。西行は空海と同じ行為だと信じて、3mもの高さの壇に登り、這い回るようにして修行する。空海が釈迦如来に逢ったという現在の捨身ヶ嶽に、しがみつくようにして登る。空海もまた、しがみつくようにして登ったはずだ。西行は、空海と自らの状況を重ねることで、空海に対して身体的な共感をはかり、その境地に近付こう・理解しようとしているのではないか。それは、真言行者である西行にとって、大きな宗教的達成だったはずである。

 相手に近付く・理解するために身体の状況を類似させる、疑似体験をする方法は、私たちが日常的に行っているものである。学校等の福祉教育で行われる車椅子体験などもそうだろう。スポーツ等であこがれのプレーヤーに近付くために、同じ練習法を取り入れるというのも同様だろう。状況を重ね、身体的に何とか共感を図ろうと試みることは、他者を理解し、精神的な距離を近付けるために大切なことなのだ。そういう感覚は、古今東西、変わらない気がする。

 我拝師山を登ってみて、そんなことを考えたのだった。西行のことが理解できたかどうかは、もう少し時間をかけてみなければわからないのだけど。  

一覧にもどる