2016.11.01
星野 佳之 (日本語学担当)
古代語・現代語の意味・文法的分野を研究しています。
古代語・現代語の意味・文法的分野を研究しています。
大学で日本語学を教える仕事柄、「正しい日本語」には気をつけるようにしている。「日本語の先生の前だから、正しい日本語を話さなきゃ」と言われたりした時などに、「正しい日本語などない」という私の立場を、できるだけ伝えるようにしているのである。相手はこちらに気を遣って言ってくれているのだから、なるべく気を損ずることなくスムーズに伝えたい。いつも困難を感じるが、この程度の苦労はどの職業にも付き物だろう。
例えば「キモい」という言葉が「正しくない」という感覚を持つ人は多いだろうし、それは真っ当である。しかしその「正しくない」感じは、この言葉が比較的新しい語であることや、「気持ち悪い」を縮めてできた縮約語であることに依るのでは、恐らくない。
試しに「気持ち悪い」と「キモい」を比べてみると、新語を派生させただけあって、両者には小さな差がある。
○ 食べ過ぎで、気持ち悪い。 ○ あの人、気持ち悪い。
× 食べ過ぎで、キモい。 ○ あの人、キモい。
上のように、「気持ち悪い」は体調不良による不快感も、感覚的嫌悪感も両方表せるが、「キモい」の方は嫌悪感しか表さない。即ち我々は「気持ち悪い」から、誰か何かに対する罵倒中傷専用の語を、わざわざ独立させたのである。そのような語を公的な場で使用することは、実状はどうあれ、多くの人が良しとはすまい。会議やスピーチで他人を侮蔑して気に留めない社会になどなったら、世も末である。「キモい」を使うことが「正しくない」と思うのは、「日本語としての正しさ」などよりも、私たちの美徳が侮蔑を拒むに過ぎない。「スマホ」という語(「スマートフォン」を縮約した新語)なら、どのような場でも咎め立てする人はほとんどあるまいから、やはり「日本語としての正しさ」の問題ではないのである。
そのスマホにも時折使われる「デコる」という語について、先日学生に教えられることがあった。
「デコる」も「デコレート+する」が"本当の形"であるかのように思いがちだが、両者、更には「装飾する」との間には、やはり違いがあるように思われる。スマホや爪などを「デコる」のと、部屋を「装飾する」というのは同じではない。工務店に頼んで建具を派手にしたりすることは、「○ 部屋を装飾する」とは言い得ても、「× 部屋をデコる」ことではなさそうだからである。
「デコる」とは私の見るところ、スマホや爪などの"本体"にはもともと付属していないアイテム(ビーズなど)を使って、その本体に更なる外観を付け加えることである。部屋を「デコれ」ないのは、窓枠やドアノブなどをいくら派手にしても、或いは仮に後から付け加えたにしても、それらはスマホに対するビーズと違って、「もともと部屋という本体に付属していて然るべきもの」と認識されるからであろう。と、ここまでは大方頷いて聞いていた学生たちだが、「故に"デコレーションケーキ"は『デコれ』ないはずだ」と言ったところで、大半が首を横に振るのであった。彼女たちは「デコレーションケーキをデコる」と言えるらしい。まあそもそも「デコった」ものを一つも持たない私がこの語の意味を詮索する限界に来たかと思い、話はそこで終ったのだが、受講生が出席カードに書いてくれたコメントが、問題を解決した。 その大意は、「チョコペンで文字を書いたり、他のお菓子で飾り付けをすることがある、それを以て『ケーキをデコる』というのではないか」というものであった。これならば納得である。デコレーションケーキを買ってきた上に、別に用意したチョコやプレッツェルやグミなどで更に外観を足していく行為は、まさに「デコる」である。恐らく彼女たちも、デコレーションケーキ自体を(生クリームや苺などで)成形する行為は「デコる」とは言わないはずだ。私はいたく満足した。
「『キモい』は『気持ち悪い』の、『デコる』は『デコレートする』の短縮である」と言われれば確かに納得しやすいが、そういう時、往々にして私たちの考えはそこで止まってしまう。更には「"本来の正しい形"を使おう」と心がけたりする。しかし、「その短縮がもたらしたものは何か」という問いこそが大事なのだ。「キモい」は時として人や物に対し嫌悪感をぶつけたがる私たちの性根を、「デコる」はメーカーの作るデザインに飽き足らず、好みのパーツを付け加えて量産品をオリジナルなものに変える私たちの楽しみ方を、それぞれ反映する。語を知ることは私たちを知ることに他ならない。
日本語学に限らずどの分野でも、学生が自分で判断を下せるようになるのを手助けする場が大学である。学生が判断の結果選び取った言葉に、正しい正しくないと私から申し渡すことは何もない。私の仕事は彼女たちの判断が更に洗練されるべく、考える材料を提供することの方にある。こういう仕事柄、「正しい日本語」は本当に要注意なのである。
・日本語日本文学科
・日本語日本文学科(ブログ)