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日本語日本文学科

2017.06.01

「春日なる三笠の山」と遣唐使 ―阿倍仲麻呂「遣唐1300年」を迎えて―|東城 敏毅|日文エッセイ164

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第164回】 2017年6月1日
【著者紹介】 東城 敏毅(とうじょう としき)
古典文学(上代)担当

古代和歌、特に『万葉集』について、研究を進めています。
 
「春日なる三笠の山」と遣唐使
 ―阿倍仲麻呂「遣唐1300年」を迎えて―

 
阿倍仲麻呂「遣唐1300年」
 今年は、阿倍仲麻呂が唐に渡った養老元年(717)から1300年という、節目の年に当たります。「遣唐1300年」ということで、奈良県ではさまざまなイベントや展示が催され、また予定されています。『百人一首』にも選ばれた阿倍仲麻呂の著名な歌は、『古今和歌集』巻第9、羈旅歌の冒頭を飾っています。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも(406)
(大空を振り仰いで見ると......春日にある三笠の山にかつて昇ったあの月だなぁ。)

 阿倍仲麻呂は、遣唐押使、多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)をはじめ、長期滞在留学生の吉備真備(きびのまきび)や、留学僧玄_(げんぼう)らとともに、総数557人という、当時として過去最大の大使節団である養老元年の遣唐使で唐に渡ります。そして、唐において教育機関である太学で学び、最難関の科挙に及第して進士となり、唐の皇帝玄宗に仕え要職を歴任、唐において重要な地位を占める人物にまで出世していきます。そのため、天平5年(733)の遣唐使の帰還に合わせ帰国を上申するも、却下され、結局、唐に渡ってから36年の後、天平勝宝5年(753)、藤原清河(ふぢはらのきよかは)を大使とする遣唐使の帰国に便乗して帰国することが許されたのです。第1船に藤原清河・阿倍仲麻呂、第2船には大伴古麻呂・鑑真、第3船には再度渡唐していた吉備真備、第4船には布勢人主(ふせのひとぬし)らが乗船していました。この出航に際し、唐という異国において月を眺め、その月を、かつて現実に見た故郷の三笠の山の月と重ね合わせて故郷を偲んだ歌が、「天の原」の歌だと言われているのです。
 
「春日なる三笠の山」に込められた「思い」
 では、この「春日なる三笠の山」には、どのような仲麻呂の「思い」が込められているのでしょうか。『万葉集』には以下のように「春日なる三笠の山」が詠まれてきます。

 春日なる三笠の山に月の舟出づみやびをの飲む酒坏(さかづき)に影に見えつつ (巻7・1295)
 春日なる三笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく(巻10・1887)

 「春日なる三笠の山」は、平城京に住む都人にとっては、常に目にする東方を代表する景であり、心を和ませる郊外の風景を表す歌表現でもありました。したがって、仲麻呂は、これらの風景を自身の歌に詠み込んできたと解することができます。ただし、三笠の山は、標高297メートルの山であり、平城京から東方を眺めると、標高498メートルの春日山に埋没してしまい、「春日なる三笠の山に出でし月かも」という実感が伴わない可能性があります。これを実感として得るためには、三笠の山の麓から月を望む必要がありますが、実はこの三笠の山の麓は、遣唐使の航海安全祈願のための神祭を実施する場所だったのであり、それは、以下の『続日本紀』の記事からも立証できます。

  遣唐使、神祇を蓋山(みかさやま)の南に祠る。  (養老元年〔717〕2月条) 
  遣唐使、天神地祇を春日山の下(ふもと)に拝す。 (宝亀8年〔777〕2月条)

 この「春日山の下」は、天平勝宝8歳(756)の明記のある、正倉院所蔵の絵図「東大寺山堺四至図」(とうだいじさんがいしいしず)に「神地」と記されている場所とも一致し、のちの春日大社の地を指すとも言われています。『万葉集』にも、天平勝宝の遣唐使として派遣される藤原清河に贈る光明皇太后の以下の歌が収められています。

    春日に神を祭る日に、藤原太后(ふぢはらのおほきさき)の作らす歌一首
    即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜ふ
大船にま梶(かぢ)しじ貫きこの我子(あこ)を唐国(からくに)へ遣る斎へ神たち(巻19・240)
    大使藤原朝臣清河の歌一首
春日野に斎(いつ)く三諸の梅の花栄えてあり待て帰り来るまで(巻19・4241)

つまり、仲麻呂は、平城びとにとって、心を和ませる郊外の風景であった「春日」の風景を歌表現として使用しつつも、出発前、航海の安全を祈願した三笠の山の麓で見た月に、望郷の念を込めたと考えられるのです。

 さらに、平安時代末に記された東大寺の寺誌である『東大寺要録』には、「御笠山安部氏社の北」ともあり、三笠の山の麓には、もともと阿倍氏の社があったことも想起しなければならないでしょう。「春日なる三笠の山」と詠まれる背景には、この阿倍氏の氏神との関係も考慮する必要があるのです。
 このように、「春日なる三笠の山」には、仲麻呂の様々な「思い」と、様々な「歴史」が込められているのです。
後世に歌い継がれる阿倍仲麻呂
 天平勝宝の遣唐使は、結局、藤原清河や阿倍仲麻呂の便乗した第一船のみが遭難し、安南に漂着、ついに仲麻呂は帰国することはできませんでした。仲麻呂は、故郷を偲びつつ、異国の地で亡くなってしまいますが、後世の日本人は、この歌に、さらに仲麻呂の帰国できなかった無念の「思い」も込めて、歌い継いできたと言えるでしょう。

平城宮跡から眺める「春日なる三笠の山」

平城宮跡から眺める「春日なる三笠の山」

荒池付近から眺める「春日なる三笠の山」

荒池付近から眺める「春日なる三笠の山」

※画像はいずれも東城敏毅撮影。
画像の無断転載を禁じます。

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