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日本語日本文学科

2017.08.01

鬼はどこにいる?──桃太郎・温羅伝説と能「吉備津宮」から──|木下 華子|日文エッセイ166

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第166回】 2017年8月1日
【著者紹介】 木下 華子(きのした はなこ)
 古典文学(中世)担当
 平安時代後期・鎌倉・室町時代の和歌や、和歌をめぐる様々な作品・言説について研究しています。
  
鬼はどこにいる?──桃太郎・温羅伝説と能「吉備津宮」から──

岡山ゆかりの能「吉備津宮」

 2017年5月13日(土)、観世流能楽師・林宗一郎氏によって復曲された岡山ゆかりの能「吉備津宮」が後楽園能舞台で初披露された。「吉備津宮」は、岡山市北区吉備津に鎮座する吉備津神社の由来を語る能で、桃太郎伝説のモデルとなった吉備津彦命による温羅(うら)退治を軸とし、著名な鳴釜神事を取り込むなど、岡山の歴史と深く結びついた曲である。復曲を監修した能楽研究者・松岡心平氏の解説をもとにあらすじを記すと、以下のようになる。

[前場(前半)]
吉備津宮の釜の鳴動という神異を確かめるために、天皇は勅使を派遣する。到着した勅使が話を聞こうとすると、庭掃きの老人が現れ、神社の縁起を語る。かつて異国から来た鬼・吉備津火車(温羅)が新山に住み、鬼ノ城を築いて瀬戸内海の海運を妨害したため、朝廷はいさせり彦を大将とする軍勢を派遣した。火車は勇猛に戦うが、ついに力尽き、自らの武勇の名が消えることを悲しんで「吉備津」の名をいさせり彦に譲る。いさせり彦は吉備津彦と名乗り、火車は吉備津宮に付属する末社と
なった。老人はこのように語った後、自分は岩山の神(=吉備津宮の地主神)だと明かし、姿を消す。

[間狂言](前半と後半の間に演じられる狂言、寸劇のようなもの)
勅使が吉備津宮に仕える神職に鳴釜のことを尋ねると、神職は由来を語り、阿曽女(あぞめ)を呼んで鳴釜神事を行う。釜は大きく鳴動した。

[後場(後半)]
前場で姿を消した老人(岩山の神)が、神の姿となって現れ、吉備の山河を祝福し、天下太平を寿い
で神々しく舞う。

 いさせり彦(吉備津彦)と吉備津火車(温羅)は、桃太郎伝説における桃太郎と退治される鬼のモデルである。昔話「桃太郎」の主人公は勝者である桃太郎、つまり吉備津彦だが、「吉備津宮」の主人公は、現在も吉備津神社内に祭られる吉備国の地主神・岩山の神だ。曲内でも、敗者である火車の勇猛な戦いにスポットが当てられ、勝者・吉備津彦の名も「吉備津」火車から譲られている。火車とは、強大な力で大和朝廷に対抗したいにしえの吉備国の象徴なのだろう。「吉備津宮」とは温羅側・吉備国側から見た桃太郎伝説の様相を呈した、まさしく岡山ゆかりの能なのである。
 
 鬼の住み処 今回、「吉備津宮」の詞章(能の文章)を見て、おやと思ったことがある。「吉備津宮」では吉備津火車(温羅)の住み処は「新山(にいやま)」であり、そこに大石を高く積み上げて鬼ノ城を作ったとされる。

 新山は現在の総社市黒尾、鬼の釜がある周辺の山岳地帯であり、鬼ノ城跡・岩屋寺もほど近い。鬼ノ城周辺ならば、火車の居場所として当然だと思えるが、実はそうでもない。室町から江戸時代にかけて成立した吉備津彦・温羅伝説に関わる文献を見渡すと、鬼に当たる存在(温羅・吉備津冠者など)の住み処は、新山に固定されてはいないのだ。

 上の表の4が今回復曲された「吉備津宮」だが、鬼に当たる存在が「新山」に住むのは、他に6「備中一品吉備津彦明神縁起」くらいである。2・3・7の「阿宗」は「阿曽」とも表記される古い地名で、鬼ノ城の南、現在の総社市東阿曽・西阿曽周辺だろう。5・8・9の「窟山」「巖夜」は、鬼ノ城北側の岩屋寺周辺を指すと思われる。「阿宗」(阿曽)は温羅の妻とされる阿曽媛や鳴釜神事に奉仕する阿曽女との関連から選ばれる地名だろうし、「窟山」や「巖夜」すなわち「岩屋」は鬼の住み処としてふさわしい(巨大な石室などを備える古墳が「鬼の岩屋」と呼ばれる例は多い)。ならば、「吉備津宮」が鬼=吉備津火車(温羅)の住み処として「新山」を選び取ったのには、何か理由があるのだろうか。

「新山」と異国

 新山という地名は、新山寺や新山別所を意識したものと思われる。新山寺(現在は廃寺)は、現総社市黒尾の新山(標高405m)とその付近に位置した平安時代に隆盛した山上の仏教寺院だ(鬼の釜周辺をイメージしていただきたい)。平安中期、天台宗に学び宋に渡った成尋(1011~81)という高僧がいるが、成尋は入宋直前の1071年、備中の「新山(にひやま)」で百日の修行を行っている(参天台五台山記・成尋阿闍梨母集)。

 この付近は新山別所とも呼ばれていた。別所とは大寺院などから離れた一定の場所に修行者が集まって多くの草庵が結ばれた場所であり、定秀という僧が新山別所に12年住み、1076年に往生を遂げた話も残る(拾遺往生伝)。実は、新山別所は、1180年に炎上した東大寺の再興に尽力した高僧・重源(1121~1206)と深い関わりを持つ。重源作の『南無阿弥陀仏作善集』には、重源が「備中別所」に浄土堂を建て阿弥陀像を安置したと記録される。この「備中別所」は新山別所である可能性があり、「鬼の釜」は重源が寄進した湯釜という説もある。この重源、1167年に宋に渡っており、帰国後の彼の周辺には来日した宋人たちがいたようだ。東大寺復興に当たっては、重源との縁で、多くの宋人が登用されている。

 このように見てくると、新山寺・新山別所は、外国とのつながりを持つ場所だと理解できる。そもそ
も、「吉備津宮」において、吉備津火車(温羅)は悪行の余りに「異国」から日本に流されてきた存在
だった。備中にやってきた吉備津火車(温羅)が新山に住むのは、実に自然なことだったのではないか。

異国から来た鬼は異国への扉を持つ土地を住み処とした、そう考えておきたい。

おわりに

 いにしえの吉備国は、瀬戸内海に面した地の利を活かし、中国大陸・朝鮮半島との交易を盛んに行っていた。二度の入宋を経て、日本に臨済宗をもたらした栄西(1141~1215)は備中吉備津宮の賀陽氏の生まれだ。入宋僧である成尋や重源の事跡をも併せると、岡山という地が、古くから外に開いていたことが理解されよう。その記憶の反映こそが、鬼(温羅)の住み処「新山」だったと思うのである。


追記:
私的な感想だが、復曲公演を拝見した折の感動と興奮は、とても書き尽くせない。舞台に吉備津神社や鬼ノ城が現前するような感覚を味わい、時間が経つのも忘れて夢中になっていた。こんなにも能が面白いと感じたのは初めての体験である。昨年から今年にかけて、山陽新聞には「吉備津宮」に関するたくさんの記事が掲載されているので、興味を持たれた方はぜひともお読みいただきたく思う。
  
※「新山」に関する説明を、一部、訂正しました。(2017年8月4日)
※画像(上)は吉備津宮復曲公演のチラシ、(中)は岡山県南部の関連地図、(下左)は鬼ノ城、(下
右)は鬼の釜。画像の無断転載を禁じます。

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