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日本語日本文学科

2018.02.01

古池に蛙は何匹飛び込んだのか?|東城 敏毅|日文エッセイ172

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第172回】 2018年2月1日
【著者紹介】
東城 敏毅(とうじょう としき)

古典文学(上代)担当 古代和歌、特に『万葉集』について、研究を進めています。
 
古池に蛙は何匹飛び込んだのか?
 
蛙は単数? 複数?

 言わずと知れた松尾芭蕉の著名な俳句、

古池や蛙飛び込む水の音

 さて、これを英訳する場合、「蛙」は"a frog"なのでしょうか、"frogs"なのでしょうか。私たち日本人(現代人)の感性から言えは、以下のように考えるのが自然ではないでしょうか。

静寂さに包まれる小さな古池。その古池は、訪ねるものも少なく、寂しげな雰囲気を漂わせている。
と折しも、蛙が一匹、池に飛び込み、ポチャンと小さな水音を立てる。静寂さを、ほんの一瞬打ち破
る小さな微かな音。水面には、飛び込んだ後の小さな痕跡が、ほんの僅かな波紋として、揺らめいて
いる。静寂さはなおいっそう古池を覆っている。

 確かに、このような解釈は、私たちの感性に合っているようです。海外の研究者も、やはり"a frog"と翻訳する場合が多いようですが、逆に、"frogs"と複数で翻訳されている方もいます。あの著名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がその一人です。

Old pond―frogs jumped in―sound of water.

 ハーンは、来日後、松江・熊本、また帝国大学や早稲田大学で英語・英文学を教授しつつ、日本人の庶民の日常生活と宗教や風俗を探究し続け、1896年には帰化し小泉八雲と名乗りました。日本人の心性を追求したその成果は、『怪談』や『骨董』の作品群に集約されていますが、ハーンは、かつての日本人が持っていたであろう心の痕跡を後世に残したと言えましょう。この古池の俳句の翻訳は、"Exotics and Retrospectives"(「異国風物と回想」1898年)の"frogs"というエッセイに収載されていますが、そこでは、蛙に関する和歌や俳句を数多く取り挙げ、西洋と日本の蛙のイメージの相違について考察しています。
このように、蛙に異国情緒を感じ、そこに日本の記憶を見出したハーン。では、私たちよりも、日本人の心性を把握していたはずであろうハーンが、なぜ"frogs"としたのでしょうか。そこには何か意図があるはずです。

深川芭蕉庵跡(東京都江東区の芭蕉稲荷神社)。この庵内に蛙の飛び込んだ古池があったと言われている(撮影:東城敏毅)。

深川芭蕉庵跡(東京都江東区の芭蕉稲荷神社)。この庵内に蛙の飛び込んだ古池があったと言われている(撮影:東城敏毅)。

蛙は古池に飛び込んだ?

 さらに単数・複数の問題のみならず、俳人の長谷川櫂氏が、その著『古池に蛙は飛びこんだか』において論じられたように、蛙自身、古池には飛び込んでいないのではないか、とする問題も存在します。なぜでしょうか。「古池や」の切れ字を無視すべきではない、というのが、その理由です。俳句は切れ字によって、二つの景を作り出す。「古池」という景と「蛙飛び込む水の音」とは別の景であり、「蛙が水に飛び込む音を聞いて芭蕉の心の中に古池の面影が浮かんだ」と捉えるべきだとされたのです。
 また、古池の俳句はもともと、初句が「古池」とは定まっていなかったことも想起するべきでしょう。以下は、芭蕉の弟子である支考が、その著『葛の松原』において、この俳句の成り立ちについて述べている箇所です。

弥生も名残お(を)しき比にやありけむ、蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にう
かびて、「蛙飛こむ水の音」といへる七五は得給へりけり。晋子が傍に侍りて、「山吹」といふ五文
字をかふ(う)むらしめむかと、を(お)よづ(ず)け侍るに、唯「古池」とはさだまりぬ。

 芭蕉が、もし晋子(宝井其角)の言葉に従っていれば、この俳句は、

山吹や蛙飛び込む水の音

だった可能性もあるのです。もしこの俳句が、「山吹」で始まっていたら、山吹と蛙を一緒に詠み込むという、和歌の伝統からは一歩も出ず(確かに、水に飛び込む音を詠むのは斬新ですが)、蕉風の確立とはならなかったかもしれません。「古池」は、そのような意味でも、新たな斬新な言葉だったのです。

「古池」句碑(清澄庭園内、撮影:東城敏毅)

「古池」句碑(清澄庭園内、撮影:東城敏毅)

再び、蛙は単数? 複数?

 さて、話を単数・複数に戻しましょう。なぜハーンは複数に翻訳したのか。
 俳句の二つの景を考えるならば、「古池」の景と「蛙飛び込む水の音」の景、それぞれ二つの別の景を考えるべきでしょう。古池という、あまり誰も立ち寄らない静寂な閑散な風景。仮に、その景に蛙が一匹だと、二つの景はありきたりの一つの景に溶け込んでしまい、二つの景の対比が、消えてしまうでしょう。先ほどあげた『葛の松原』にも、「蛙の水に落る音しばしばならねば」と、わざわざ書いているように、頻繁ではありませんが、一匹、一匹と飛び込む音が聞こえていたということでしょう。つまり、春になり、新たな蛙(生命)の息吹が一つ、また一つと感じられたのではないでしょうか。新たな生命の息吹が、誰も立ち寄らない古びた池にも見出され、そこにこそ、この俳句の趣があったのではないでしょうか。
 芭蕉には、「古池や」の俳句と、以下の俳句を並記する真蹟懐紙が残されています。

ながき日もさえづりたらぬ雲雀(ひばり)かな     (出光美術館蔵)

 この俳句は、まさに春爛漫のさなか、さえずり足りない雲雀の姿に春の景を見出していますが、この二句を一緒に書き写した芭蕉の心、それは新たな生命の息吹と喜びではなかったでしょうか。したがって、やはり蛙は、春の生命力の充溢さを示すべく、複数でなければならなかったと思うのです。
 ハーンは、その芭蕉の心に寄り添っていたのではないでしょうか。
 さて、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」。蝉は単数? 複数?

「芭蕉翁之像」から眺める隅田川(撮影:東城敏毅)

「芭蕉翁之像」から眺める隅田川(撮影:東城敏毅)

〔参考文献〕
・大磯義雄・大内初夫校注『蕉門俳論俳文集』(集英社、1970年)
・大谷篤蔵監修『芭蕉全図譜』(岩波書店、1993年)
・長谷川櫂『古池に蛙は飛びこんだか』(中央公論新社、2013年)
・Lafcadio Hearn, Exotics and Retrospectives, The Writings of Lafcadio Hearn, Ⅸ,
 Boston:Houghton Mifflin,1922.
小泉八雲、平井呈一訳『仏の畠の落穂・異国風物と回想』(小泉八雲作品集 第8巻)(恒文社、1964
年)

*ラフカディオ・ハーンにつきましては、群馬工業高等専門学校教授、横山孝一先生にさまざまなご教示を賜りました。末筆ながら感謝申し上げる次第です。
 
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