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日本語日本文学科

2018.03.01

遠藤周作『沈黙』とスコセッシ監督「沈黙―サイレンス―」をめぐって|山根 道公|日文エッセイ173

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第173回】 2018年3月1日
【著者紹介】
 山根 道公(やまね みちひろ)
 近代文学担当
 遠藤周作を中心にキリスト教と関わる近現代文学を研究しています。
 
遠藤周作『沈黙』とスコセッシ監督「沈黙―サイレンス―」をめぐって
 
 遠藤周作の『沈黙』は私が授業で最もよく取り上げる作品だ。そこには、卑怯で弱虫で裏切者という誰からも信用されず嫌悪されるキチジローという人物が登場する。最初はそうしたキチジローを最低の人間と言って嫌っていた学生が、作品の読みを深めていくなかで、キチジローこそ自分と同じだ、最も人間の本質を表している人物だと意見を述べるようになっていく姿に幾度となく出会った。それは、他者を理解し受け入れる心を耕してくれる、文学作品の力を改めて知る体験だ。

 ちょうど1年前、2017年1月20日、その小説『沈黙』がスコセッシ監督によって映画化され、封切ら
れた。それは、不寛容に向かう時代の潮流を象徴するトランプ大統領の就任演説が朝のニュースで流れた日であった。

累計200万部を超えた新潮文庫『沈黙』(遠藤周作著)

累計200万部を超えた新潮文庫『沈黙』(遠藤周作著)

 『沈黙』も不寛容な時代の物語だ。江戸幕府がキリスト教を危険視し、信徒を根絶しようと弾圧し、多くの血が流れた。そうした日本に宣教師ロドリゴは潜入し、日本人信徒の苦悩と悲惨な姿を目の当たりにする。神はなぜ黙っているのかと問い続けるなかで、自分もマカオからの案内人だった日本人信徒キチジローに裏切られて役人に捕まる。精神的に追い詰められた心の痛みの極みで、「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。...お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と踏絵のキリストの眼差しが訴える声を聞き、ロドリゴは踏絵に足をかける。

 この時、原作では「鶏が遠くで鳴いた」と描写され、映画でも鶏が鳴く声が聞こえる。これは、新約聖書のペトロの裏切りを想起させる。『ルカ福音書』(22章31-34)では、最後の晩餐の席上で、一緒に死んでもよいと覚悟しているという弟子のペトロに対して、イエスは、ペトロの弱さを本人以上に理解し、今日鶏が鳴くまでに自分を裏切るだろうと予告し、お前のために信仰がなくならないように祈ったと告げる。その後、イエスは捕えられ、ペトロはイエスを裏切り、鶏が鳴く。自分を裏切る者のためにも祈り、愛し、許すイエスの眼差しが、ペトロに向けられていたのと同様に、ロドリゴにも向けられていることが「鶏が鳴く」描写で暗に示されている。

 さらに、キリスト者が信仰の土台とすべき新約聖書でイエスは、旧約聖書にある「目には目を」という報復を否定し、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるのだから、と愛と寛容を教える(「マタイ福音書」5章38-45)。
 自分を裏切った者を許すことがどれほど困難なことであるかは、『沈黙』において、キリストに倣おうとするロドリゴがどうしてもキチジローを許すことができない姿からうかがえる。しかし、ロドリゴは、踏絵を踏み、自分がキチジローと違わない弱者でありながら、そんな自分がありのままでキリストに愛されていることを悟っていく。そのキリストの愛を知ったロドリゴは、キチジローを心から許し、自分の出会ったキリストの愛を伝え、キチジローは切支丹屋敷に幽閉されるロドリゴをそばで支える召使いになっていく。

 この二人の関係は、原作では最後に付録のように置かれた漢文書き下し文の「切支丹屋敷役人日記」の中で暗示されているのだが、読者のほとんどはそこを読んでくれないと遠藤は嘆いていた。その部分が映画では明確に描かれている。さらに原作は、切支丹屋敷に送られることになったロドリゴが「私の今日までの人生があの人について語っていた」と告白して終わり、役人日記が付されるが、映画では、ロドリゴが仏式で火葬される役人日記の最後の記述までを鮮烈に描き切っている。それによってロドリゴの人生が神について語っていること、どんな力によっても奪うことのできない神とつながる魂の領域があることを暗示した、原作のテーマをさらに深めた、神の眼差しを感じさせる映像で幕を閉じる。

 ロドリゴは、西欧の雄々しい力強いキリストの顔に励まされ、大海を渡って日本の風土に入り、隠れ切支丹の日本信徒が心の拠り所としてきた掌に収まる素朴な木の十字架のキリスト像を譲り受ける。それは日本の風土の中で日本信徒の苦しみに母のように寄り添ってきた愛と許しのキリストの顔であったろう。ロドリゴはそれを隠し持ち、最期には妻によって棺に入れられる。そうした最後の場面は、日本信徒たちともキチジローとも妻子ともつながる密かな信仰を生きたロドリゴの魂のドラマが鮮やかに浮き彫りにされた結末だった。

 ここまで深く人間の魂の領域を描いた作品は、観る者の心をおのずと開き、寛容に向かわせる力があるのではなかろうか。『沈黙』の執筆のために友人の井上洋治神父と長崎の取材の旅をしていた遠藤は、井上神父に「俺は人間が裁けなくなった」としみじみと語っていたという。その言葉が今、思い起こされる。

 この映画「沈黙―サイレンス―」も昨年8月にはDVDになった。次年度の授業では、『沈黙』の原作と映画をめぐってのディスカッションも試みたいと計画を立てている。
※画像は『沈黙』(遠藤周作著、新潮文庫)画像の無断転載を禁じます。
 

 

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