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人間生活学科

2019.05.29

渋沢栄一と福祉|杉山博昭|社会福祉学研究室

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人間生活学科

授業・研究室

 このたび新一万円札の肖像になることが決まった渋沢栄一について、よく「日本資本主義の父」と紹介されます。実は渋沢には、福祉に貢献したというもう一つの顔があります。

 渋沢が活躍した、近代初期から1920年代までは、福祉がほとんど何もない状況から,実践や制度を立ち上げていく発展期でもあります。

 渋沢はこの時期に、福祉にさまざまな形で寄与していきました。

 自らが直接関わったのが、東京養育院という施設の院長を務めたことです。東京養育院というのは1872(明治5)年に、今ではホームレスと呼ばれている人たちが入所するために始まりました。入所者には、高齢者、病者など多様な人がいたために、派生していろいろな施設につながっていくことにもなりました。渋沢は長く院長として養育院の維持、発展に尽力しました。

 現在、養育院の伝統を継承した機関の建つ場所に銅像が置かれています。

 全国社会福祉協議会という、福祉団体があります。民間の立場で地域福祉を推進する全国組織です。この団体は1908年に中央慈善協会という名称で始まりますが、初代会長が渋沢でした。

   渋沢が会長になったのは、渋沢は慈善事業と深い関係があったからです。法制度が不十分な時代、民間人が自力で施設を設置して、生活困難な人を支援しました。そういう活動を慈善事業と呼びます。慈善事業は崇高な理念を掲げて創設されるのですが、実際に運営していくと資金不足に悩まされます。渋沢はしばしば資金援助をして、支えたのです。

 資金援助ができたのは、富裕だったからできたことだという批判が可能かもしれません。しかし渋沢はお金を出すだけでなく、施設の責任を担って支えたこともあります。

   滝乃川学園という知的障害児の施設があります。石井亮一という人が創り、妻の筆子とともに運営していました。現在でも継続されていますが、廃止寸前の危機に陥ったことがあります。

 1920年に火災が発生して、建物が焼失し、障害児教育のための資料や教材も焼けました。何より入所児6名が死亡します。責任を痛感した石井夫妻は、学園の廃止を考えます。

 学園の存続を願う人々の声を受けて、再建することになりましたが、それは経済的にも精神的にも厳しいことでした。そういう状況で渋沢は、法人の理事長として再建に尽力しました。活躍の大きさのせいでしょうか、「初代理事長」と誤解されているようですが、正確には三代目です。

 晩年になっても福祉への熱意は衰えません。1929年に救護法という、今の生活保護法の前身にあたる法律が制定されます。せっかく制定されたのに、制定後に政権交代がありました。新政権(浜口民政党政権)では緊縮財政をとることになって、実施されないことになりました。

   方面委員(今の民生委員)らによる実施要求にもかかわらず、政府の方針はまったく変わりません。渋沢はすでに高齢であり、しかも病気でありながら、すみやかな実施を求めて自ら政府に陳情に出向きました。

 救護法は渋沢の努力が実って、ようやく1932年から実施されますが、実施の時点で渋沢は死去していて、実施の日を見ることはできませんでした。

 日本の福祉は、渋沢だけでなく、こうした先駆者の努力の積み重ねで発展していくのです。

 

 杉山ゼミでは、歴史的な教訓を踏まえつつ、安心して生活できる社会を目指して福祉の課題に取り組んでいます。現在、高齢者介護、児童虐待、ひきこもりなどさまざまな課題が噴出していて、対応が急務です。もちろんそれぞれ一刻も早く取り組むべき課題です。

 しかし、きちんと解決するためには、原因や背景を明らかにしなければなりません。そのためには現状分析だけでなく、歴史の理解が不可欠です。歴史へのしっかりした認識を踏まえつつ、現実に起きている問題に向き合っていきます。

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