人間生活学科

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2019.01.11

土光さんとブラジルのダイズ|清水純一教授|生活文化学研究室

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土光敏夫(1896-1988)氏と言えば、あらためて説明するまでもなく、岡山が生んだ偉大な財界人です。石川島播磨重工業社長、東芝社長・会長などを歴任した後、1974年に経団連の第4代会長に就任し、2期6年勤めました。土光さんの名前を全国にとどろかしたのは1981年に会長に就任した第二次臨時行政調査会での活躍でしょう。この時は夕食にメザシを食べている映像がお茶の間に流れ、「メザシの土光さん」として、その質素な生活ぶりが人々の心を打ちました。

このように、昭和に活躍した偉大な財界人である土光さんですが、その名前をつけたダイズがブラジルにあることをご存じの方は少ないと思います。しかも、それが日本の食料自給という問題と関係し、発端がエルニーニョであることを知っている人は出身地の岡山県にもあまりいないでしょう。

きっかけとなった出来事は1972年にまで遡ります。1972年3月から1973年3月にかけての1年間、南米ペルー沿岸の海面水温が高温のまま持続する、当時としては20世紀最大のエルニーニョが発生しました。この影響でカタクチイワシの一種であるアンチョビの漁獲量が激減したのです。当時、アンチョビの魚粉は主としてヨーロッパに家畜のエサとして輸出されていました。アンチョビの不漁により、南米からのエサの輸入が途絶え、困ったヨーロッパの畜産農家は代わりにダイズを絞った粕であるダイズミールをアメリカから輸入しました。そのため、アメリカからヨーロッパへのダイズ輸出量が急増し、アメリカ国内でダイズの価格が急騰して前年の4倍にもなりました。この対策として当時のニクソン大統領は6月27日にダイズの輸出禁止措置を発表したのです。

ダイズが家畜のエサになるのかと疑問に思う人がいるかもしれません。ダイズというと、日本人は味噌、醤油、納豆、豆腐などの食品の原料としてのイメージしか持ちませんが、世界的に見て、日本を含む東南アジア以外では食用としてダイズはほとんど使われておらず、ほぼ全量が油を搾るための油糧用として消費されています。また、油を絞った残り粕であるダイズミールはタンパク質を含み、重要な家畜用飼料になります。

1972年当時の日本のダイズ自給率は3%で、しかもその輸入量の92%を米国に依存していたため、アメリカの輸出禁止により、豆腐の価格が上昇し、消費者がスーパーに押し寄せるなどの騒ぎになりました。しかし、アメリカでは1973年産のダイズが豊作になることが確実になり、アメリカ政府は9月8日にダイズ輸出禁止措置を解除しました。結果的に、この輸出規制は約70日という短期間で終了したのです、日本が食料安全保障上、ダイズの輸入先を多様化しなければならないと考えるきっかけになりました。そこで注目されたのがブラジルのセラードです。

セラード(図1の茶で示されている部分)はブラジルにある植生の一つで総面積は約2億ヘクタールもあります。ねじ曲がった木が生えており、独特の景観をなしています。酸性土壌であるため、かつては不毛の地と見なされ、農業生産にはまったく利用されていませんでしたが、土壌改良さえすれば極めて農業に適していることが明らかになり、ブラジル政府の農業研究開発機関による亜熱帯用品種の開発と相まって1970年代以降急速に農地開発が進み、現在ではブラジルのダイズの約6割がセラードで生産されています。

図1 セラードの分布出典:世界自然保護基金(WWF)ブラジル図1 セラードの分布出典:世界自然保護基金(WWF)ブラジル

1974年9月、当時の田中角栄首相がブラジルを訪問してガイゼル大統領と両国でのセラード農業開発について合意し、1979年から日本・ブラジル共同のナショナルプロジェクト「日伯セラード農業開発協力事業(プロセール事業)」が開始されました。この事業は2001年に終了するまで20年以上にわたり、700戸以上の農家が入植し、34.5万ヘクタールの農地が開発されました。現在のブラジルの農地面積に比べると一見わずかな面積に思えますが、この事業の成功により、セラードでダイズ生産が可能であることがわかるとブラジル全土からセラードに入植してダイズを生産する農家が集まり、現在ではブラジルがアメリカと並ぶダイズ生産国になっているのです。実は私も3年間だけですがこの事業にかかわりました。

写真1 センターピボット(筆者撮影)写真1 センターピボット(筆者撮影)

ブラジルのダイズ畑ではコンパスのように中央の軸を中心に、水が出るホースを吊り下げた腕のようなものが回転して灌漑する、センターピボットという大規模灌漑装置が導入されています。

写真2 ダイズ畑の航空写真(筆者撮影)写真2 ダイズ畑の航空写真(筆者撮影)

センターピボットにより灌漑された畑は緑の円をなしています。この一つの円は50ha以上あり、岡山県の農家1戸当り農地面積の50倍ほどです。

ブラジル政府は、この日本の援助に対して大変感謝し、1980年にブラジルで最初に実用化された熱帯用のダイズの品種には、田中首相に依頼されて、経済界からこの事業への出資に尽力した経団連の土光敏夫会長の名を取り、「Doko」という名前が付けられたのです。結果的に、アメリカの輸出禁止措置がアメリカに並ぶダイズ生産地をブラジルに産み出したというのは皮肉な出来事とも言えます。現在、アメリカと中国で貿易摩擦が激しくなっていますが、輸出制限をした国は中長期的に損をするというのが歴史から学ぶ教訓です。

プロデセール事業を推進するにあたり、日本、ブラジル双方に献身的な働きをした方がいました。しかし、このような歴史的な事業が日本ではほとんど忘れ去られようとしています。かつて日本が世界の食料の需給関係を変えるような大規模な国際協力の事業を実施したということを皆さんに知って欲しいと願っています。